遠
藤克則(日本中会・神学研修生)
スコットランドの国民契約(1638)
から改革中会の設立 (1743)まで
目次
T 序
U スコット
ランドの教会史とカベナンター:国民契約
(1638年)から改革中会成
立(1743年)まで
V まとめ
補遺(@)
アイルランドと北米大陸への展開
補遺(A)
スコットランド教会史の略年表:
国民契約から改革中会の成立ま
で
I. 序
改革長老(カベナンター)教会という、世界のプロテスタント教会の中でも目立たない、そして、ある意味で奇異ともいえる教会の形成
の歴史を辿ることは、単なる懐古趣味でしょうか。 また、どんな意味があるでしょうか。
さて、私たちキリスト者は、キリストに向かって「私の主、私の神。」(ヨハネ福音書20:28)と告白する者です。 が、私たち
が、教会はもとより 生活の全領域でキリストを<神>と信じキリストを<主>として従っていく過程で、喜びとともに、困難や悲しみが避けられません。 初
代教会の聖徒たちも、その双方を経験しました。 そのような、「多くの証人たち」(ヘブル書12:1)が教会の歴史にはいます。
そして、文字通り、命がけの状況で、キリスト者の生き様を証した人々が、17世紀のスコットランドの歴史に登場します。 カベナン
ターたちです。 無論、私たちは17世紀のスコットランドに生きているわけではありません。 しかしながら、王キリストの支配を拒む者は、いつの世にも存
在します。 自らが神にならんとする倒錯した欲望が人間にあります。 これは17世紀後半のスコットランドの国王たちにあっては、国家と教会との両方の首
領(ドン)たらんとしたことにおいて顕著に現われましたし、これからも 時と場所を変えて起こり得ることです。 カベナンターたちの歴史から学ぶ意義が、
今を生きる私たちにもある所以です。
II. スコットランドの教会史[3]とカベナンター : 国民契約
(1638年)から
改革中会成立(1743年)ま
で [4]
1.スコットランド第2宗教改革までの道のり:1637年以前
スコットランドの宗教改革は、まずジョン・ノックスらの働きによって、その礎が築かれたことはよく知られています。[5] とりわけ、1560年の議会による『信仰告白』と『第一規律書』の採択によって、「スコットランド教会としては、教皇をも至上権
を持つ国王をも、いずれもいただかない、その唯一の王はキリストである・・・」[6] ことを明言したことは、注目に価しましょう。[7] 通常、宗教改革の核心といえば、「信仰のみ」・「恵みのみ」・「聖書のみ」の原則、と言えますし、それは至極正しい理解ではあり
ますが、スコットランドにおいては、「キリストのみ」[8]の原則が 救いの教理(「キリストのみが救う!」だけではなく、教会政治の分野にも強く主張された(「キリストのみが君臨す
る!」)わけです。 また、これこそが、長老主義の勘所と言い得ましょう。[9]
さて、その後、スコットランドの宗教改革は火はアンドリュー・メルビルらに受け継がれ、長老主義が普及します。 が、17世紀に
入って、イングランド女王のエリザベス1世の死去に伴い、スコットランド王のジェームズ6世がロンドンに移り、ジェームズ1世(1603年〜)としてイン
グランド王を兼ねるようになった頃から、事態が悪化していくことになります。 すなわち、ジェームズ1世は、これまでのスコットランドの長老主義者たちへ
の好意的な態度を改めて、むしろ、非難、そして、迫害をするようになります。 イングランド王国の王冠と教会の頭の地位の二つを同時に我が物にした彼に
とって、スコットランドの長老主義(教会の頭たるキリストが長老によって教会治める)が疎ましく思われるようになったことがわかります。[10] そして、彼の死(1625年)により、その跡を継いだ息子のチャールズ1世の治世になっても、方向性は改まりませんでした。 そ
の最たるものは、イングランド教会のロード大主教の影響の下で作られた 反・長老主義の『教会法規集』[11](1635年5月)の公布と カトリック的色彩の濃い『礼拝式文』[12]への遵守が枢密院によって布告された(1636年11月)ことです。しかも、この国王の名による命令に違反する者には処罰が加えら
れることになりました。[13] そして、「そうこうするうちに、憤激の感情が[スコットランド]国民のうちにうつぼつと高まって」[14] いったのです。
2.国民契約(1638年)[15]
このような時代を背景に、1637年7月23日、セント・ジャイルズ教会での騒動が勃発します。 すなわち、ロード大主教が導入した新しい『礼拝式文』によって礼拝が執
り行われようとしていた際に、言い伝えではジェニー・ゲディスという信徒の女性が、それを朗読する司祭長に目掛けて、膝付き用クッションを投げつけた、と
される事件です。[16]
そして、「この出来事は [スコットランドの] 国全体に、召集ラッパとして鳴り響きました。」と、トマス・ブラウンが書いているように、これが引き金となって、スコットランドの
全土に 『礼拝式文』拒否の流れが広がっていきました。 そのような大きなうねりの中から、1638年2月、国民契約の締結
へと歴史が進んでいくわけです。
この国民契約は、アレキザンダー・ヘンダーソン と ウォリストオンのジョンストンとによって起草され、その主眼は
「1592年当時の長老主義を復興すること」[17]にありました。 つまり、「教皇主義に抵抗することを義務づけ、長老主義を反逆とする嫌疑からまもり、真に改革された宗教を告白
し、それへの服従を徹底するという厳粛な約束を含むもの」[18]でした。 また、この契約には、サザランド伯爵をはじめとする貴族やあらゆる階層のスコットランドの国民が署名に臨んだことからも
わかるように、多くの人たちには、信仰上の自由とスコットランドの独立が、チャールズ1世が君臨するイングランドからの政治的圧力によって侵害されてい
る、[19] と感じてられていたことが見て取れます。[20]
3.グラスゴー大会(1638年)[21]
同年の11月、スコットランド教会[22] は「36年ぶりに[政府の管理から]自由な大会を開催」[23]することに成功します。 そこで決議されたことは、「1592年に・・・長老主義教会の樹立を定めた<黄金法>の体制を固守するこ
と、国王の後ろ盾で主教に任命された人々を解任すること」[24]などでした。 言い換えれば、「司教制と[国王が教会の頭であるという]国王至上権を支持する全法令が無効と宣せられ、」[25] あのカトリック的な『礼拝式文』も廃止されました。[26] 更に、このグラスゴー大会は1606年から1618年までに国王の管理下の大会でなされた決議を、教会への国王政府の不当な介
入であったとして無効を宣言しました。[27]
これは、教会の頭であるキリストは 長老達によって教会を治められ、国王といえども神様からの長老達に託された権能を侵害できな
い、という長老主義の根幹に関わる決定でした。[28]
4.厳粛な同盟と契約(1643年)[29]
1638年の一連の動きを見て危機を察知したチャールズ1世は、「大会が終わるやいなや・・・戦争を仕掛け、契約に署名した者たち
を 力ずくで圧倒する決意をします。」[30] これが、<第一次主教戦争>(1639)の勃発です。 国王軍はスコットランドへの侵入を試みますが、国土防衛のために急遽立
ち上がったカベナンター(契約派 “Covenanters”)軍に敗退します。[31]
が、懲りるということを知らないチャールズ1世は、再び兵を進めようとします。1640年の<第二次主教戦争>です。 そして、国
王軍が再びカベナンター軍に敗北したため、チャールズ1世は「賠償金支払いのため、同11月、いわゆる[イングランドの]長期議会の開催を余儀なくされ」[32] ます。
これを受けて、イングランド議会が11年ぶりに開催される運びとなるわけですが、「議会が開催されるや議員たちは [大主教]ロード=[寵臣]ストラフォード体制に対する批判を厳しく展開し、・・・議会そのものが、国王に対する反乱の拠点の様相を見せ始め・・・そこで
チャールズ1世はロンドンを離れ、オックスフォードに別の議会を設けるとともに、そこに軍を集結し、[1642年8月、] 議会側に内戦を
もっとも、国王側は百戦練磨の正規軍、議会側はアマチュアの義勇軍ということもあって、議会軍は各地の戦闘で劣勢に立たされます。
そして、イングランドの議会側は スコットランドに軍事的支援を求めることに傾き、双方の代表が協議の末、ついに「[1643年8月17日、] <厳粛な同盟と契約>が、合意を見るに至った・・・。」[34] のです。
さて、ここまでは もっぱらイングランド議会側の事情でありましたが、彼らの支援要請を受け入れたスコットランド側には どのよう
な思惑があったのでしょうか。 それは、<厳粛な同盟と契約>の文言からうかがい知ることができます。
「[イングランド、スコットランド、アイルランドが]教理、礼拝、規律、政治の点で、スコットランド教会の改革された宗教を保持すること、イングランド、アイルラ
ンド両王国の宗教を、神の御言葉と最良の改革派諸教会の規範に従って、教理、礼拝、規律、政治の点で改革する・・・。三王国の神の教会を、宗教、
信仰告白、教会政治の形態、礼拝と教理問答教育の指針において、できるかぎり近づけ、統一することに努める。」(松谷訳)[35]
4.ウエストミンスター神学者会議 [イングランド史](1643年〜49年)[36]
1640年に再開されたイングランドの議会(「長期議会」と呼ばれている)は、イングランド教会における改革を とりわけ教会政治
や礼拝の面において徹底するために、ウエストミンスター・アベイに神学者達を召集しました。 これを、<ウエストミンスター神学者会議>と
呼びます。 が、その当初の会議の目的は、前述の<厳粛な同盟と契約>のスコットランドとの締結によって、「三王国の神の教会を、宗教、信仰告白、教会政
治の形態、礼拝と教理問答教育の指針において、できるかぎり近づけ、統一する」[37]方向へと大きく軌道修正されることになります。 言い換えれば、会議そのものはイングランドの会議でありつつ、同時に、スコットラ
ンドとアイルランドをも視野に入れた会議に様変わりしたわけです。[38]
また、<厳粛な同盟と契約>の締結によってもたらされた変化は、スコットランドから特命委員(“Commissioners”) が会議に派遣されることになった点にも表れます。 特命委員とは、イングランド議会に遣わされたスコットランドの「言わば特命[全権]大使」[39]で、議決に参加することはできないものの、発言権が認められていました。 派遣された特命委員は、代表がアレグザンダー・ヘンダー
ソン(セント・ジャイルズ教会牧師)、委員がジョージ・ギレスピー(グレイフライアーズ教会牧師)、サミュエル・ラザフォード(セント・アンドリューズ大
学教授、牧師)、ロバート・ベイリー(グラスゴー大学教授、牧師)、アーチボルド・ジョンストン(弁護士、長老)、ジョン・メイトランド(長老。後年、王
政復古とともに国王の忠臣となり、カベナンターを迫害する)でした。[40]
この会議からは、『信仰告白』、『大教理問答』、『小教理問答』、『長老主義政治基準』、『礼拝指針』が生み出されました。[41] スコットランドの教会のウエストミンスター神学者会議への貢献については、まだ多くの研究の余地が残るものの、例
えば、『信仰告白』の30章1節において「主イエス・キリストは教会の頭として、教会のなかに、世俗的為政者とは別に、教会の役者(えき
しゃ)による政治を、定められた」[42](松谷訳)と語られるとき、<教会の信仰上の独立>という スコットランド第2宗教改革が命がけでかち取った遺産が受け継がれてい
る、と言えるのではないでしょうか。[43]
5.スコットランド第2宗教改革の末期(1648〜1651年)[44]
約定(1648年)[45]
1647年、ハミルトン侯を筆頭とするスコットランドの親王派の貴族たちは、イングランド議会によって幽閉の身にあったチャールズ
1世と ワイト島で密かに会見し、王がイングランドを再び支配することを支援すべく兵を挙げることを約束します。 この密約を<約定>(1648
年)とよび、ハミルトンたちのことを 約定派(“Engagers”)とよびます。 もっとも、この裏取引がほどなくして発覚すると、カベナンター(契約派)の大半が約定派を非難しました。結果的に、
約定派の軍隊はクロムウェル率いるイングランド議会軍に敗れ、指導者のハミルトン侯も処刑されます。
等級法(1649年)[46]
約定派の挙兵と失敗は、スコットランド議会の政治力学にも影響を与えます。そもそも議会の多数派であった親王派に替わって、カベナ
ンター(契約派)が議会の主導権を握ることになります。 そこで、スコットランド議会は、前述の親国王の約定派が公職(官吏や軍人)に就くことを禁止する<等
級法>(1649年)を可決し、<厳粛な同盟と契約>をスコットランドの行政においても徹底しようとします。[47]
チャールズ1世の処刑(1649年)とチャールズ2世の帰国(1650年)
この間、チャールズ1世は、1649年に イングランド議会によって処刑されます。 それを受けて、スコットランド議会は、国王の
息子(後のチャールズ2世。カベナンターを迫害する。)と接触します。[48] そして、1650年6月、チャールズ2世(戴冠は 翌年1月)は スコットランドに到着し、1650年8月には 議会の期待どお
りに<厳粛な同盟と契約>への恭順を誓約し、[49] スコットランド王としての戴冠への準備を進めていきます。
イングランド共和国軍によるスコットランド侵攻(1650年)
もっとも、チャールズ2世のスコットランド到着は、スチュアート朝を嫌悪するイングランドの指導者クロムウェル[50] の知るところとなり、ついに、イングランド共和国(“Commonwealth”)[51]軍は 1650年7月にスコットランドに侵攻し、9月にはエジンバラを制します。 そして、1651年にスコットランド軍が完敗し
て以降、同国は 1660年の<王政復古>まで イングランド共和国の支配下に入ることを余儀なくされます。
6.イングランド共和国治世下のスコットランド(1651〜1660年)
公的決議(1651年)[52] を巡るカベナンター(契約派)の内部分裂
クロムウェルの軍隊によるエジンバラ制圧に危機を覚えたチャールズ2世と親王派たちは、スコットランドの国家と教会のあらゆる派閥
や階層からの支持をとりつけようと画策します。 その最たるものの一つが、<公的決議>(1651年)と呼ばれる提案です。 これは、等級
法(1649年)によって公職への道が閉ざされた人々の復権をねらったもので、スコットランド教会の大会は1650年7月にこれを可決してしまいます。
そして、この決定の妥当性を巡って、それを支持する決議派(”The Resolutioners”[53];後に、その多くが国王側になる。)と、反対する抗議派(”The Protestors”)[54]とにカベナンター(契約派)は分裂します。 前者は、現実主義者たちで、このような国の危機に際しては、原理原則はさておき、個々
人の信仰的な立場は不問として、とにかく有能な人材(官吏、軍人)を募り、国を護ろう、という考えを持っていました。 他方、後者の抗議派は、等級法に
よってクリスチャン政府[55] を維持しようという、あくまでも<厳粛な同盟と契約>の路線を貫こうという人々でした。[56]
このような、現実的であろうという人々と 契約に忠実であろうという人々との対立や分裂が、後代の改革長老教会の歴史においても、
それが時と場所とを変えて、歴史で繰り返されます。[57]
クロムウェルによる宗教政策
決議派と抗議派とに分裂したスコットランド教会は、[58]それぞれに大会を持つようになります。 そして、1653年7月、スコットランドをすでに平定し、支配下に置いていたクロムウェル
の共和国軍は、決議派の大会(”The
Resolutioner General Assembly”)にコットレル中佐を遣わして散会を命じます。[59] 他方、抗議派の大会(“The Protestor General
Assembly”)は、当初は継続を認められますが、やがて、これも禁じられます。[60] クロムウェルは抗議派に対しては理解を示しましたが、抗議派にとって、為政者による教会の大会禁止は認め難いことでした。 が、総
じて、会衆主義(独立派)者たちにはもちろんのこと、長老主義者にとっても、信仰の自由に関しては寛容な時期であったと言えます。
6.カベナンターの受難期(1660〜1688年)
王政復古(1660年)
1658年9月に、イングランド共和国を治めたクロムウェルが死去すると、事態は流動化します。 フランスに亡命していたチャー
ルズ2世を、「1660年5月29日、ロンドンでは盛大な祝祭で歓迎しました。 10年ぶりにイングランドの土を踏んだのです。」[61] これは、王政復古(1660年)として知られます。 特筆すべき点は、この王政復古の際に、チャールズ2世本
人が1651年の新年にスコットランド国王として戴冠する際には誓約した<国民契約>と<厳粛な同盟と契約>への恭順を、今回、国王は明言しなかっ
たということです。[62]
また、もう一人の重要人物は、スコットランド出身のジェームズ・シャープです。 彼は、もともとカベナンターでした
が、チャールズ2世の右腕となり、アンドリューズ大主教として、主教制(“Prelacy”)をスコットランドに徹底すべく、カベナンターたち(つまり 長老主義者)を迫害していきます。
主教制の樹立:王位至上令(1661年)など [63]
王政復古後、最初のスコットランド議会が1661年1月に開催されます。なお、出席した議員の大半が、悪質分子(”Malignant”[64])だったため、この議会は 嘲笑的に「酔っ払い議会」(”Drunken Parliament”)とも呼ばれています。 さて、この 1661年の「酔っ払い議会」は 王位至上令(1661年)[65]と廃棄令(1661年)[66] を可決します。 前者の主眼は、「教会と国家とに対する至上の権威は国王にあること[を謳(うた)い]、恭順の誓約を強要する」[67]ところにありました。 また、後者の廃棄令の主眼は、「1633年以降に議会が制定した法律のすべてを無効とする」[68]ところにありました。 また、1662年の議会では、宣誓破棄令(1662年)[69]が通過し、<国民契約> や <厳粛な同盟と契約>への誓約が非合法とされました。 このように、チャールズ2世は、議会による法
制化という手段を巧みに用いながら、主教制とエラストス主義を推進させて、スコットランドの教会に対する国王の権限を強化
していきました。[70]
牧師の追放(1662年)
議会の法制化によって主教制とエラストス主義を推進ようとする国王側が、それを現実面で徹底するために打ち出した政策が、長老主義
の牧師たちの教会堂からの(文字通りの!)追放でした。 1662年10月に国王の枢密院("The Privy Council”)は、「1649年以降に任職された全牧師に対し、11月1日までに[主教]に従う意志を表明する文書を提出させ、それに応じなければ聖職録を没収し、それでも[応じなければ]説教壇から引きずりおろさせる」[71]という法令を出します。 結果的に、数百人(トマス・ブラウンによれば、400人あまり[72])の牧師が、主教の権威のもとに下る(つまり、「教会の頭は国王である。」と認める)ことよりは、講壇を去ることを選びました。
J.G.ヴォスは、潔く追放されることに甘んじた牧師の大多数が 前述の<抗議派>であったことと、その他方で、<決議派>の大半が 主教の権威の下に帰
依したことを挙げて、「これは驚くに当たらない[当然の結末]だ」[73]と評価しています。
とまれ、このように教会堂と牧師館を追放された牧師たちは、一般家庭や野外で説教を語り続け、[74] 秘密集会("The Conventicles”)を形成していきます。そして、この流れこそが、厳しい迫害やいくつかの紆余曲折をへた後に、改革長老中会(1743年に成立)へ
と受け継がれていくことは、後で触れます。
カベナンターに対する圧力: 信仰自由令(1669年以降4回)など
1665年10月に、枢密院は前述の秘密集会("The Conventicles”)を持つことも参加することも禁ずる法令を出します。 また、それを破ったものには投獄を含む罰則も課せられることに定められまし
た。 1670年になると、議会は「血だらけ法」("The Bloody Law” [75])とも呼ばれる秘密集会の取り締まり法を可決します。 罰則は「死刑と財産没収[というもの]」[76]でした。 が、初代教会以来、歴史を通じて明らかなことは、国家体制側が、どんなにクリスチャンの集会や御言葉の説教を制限しよう
としても「御言葉はつながれない」という聖書的な真理です。
さて、ステュアート朝は 王政復古(1660年)から名誉革命(1688年)で失脚するまでの間に、四つの<信仰自由令> (“The Indulgences” )を発布します。[77] これらは、追放された牧師たちが、主教制への帰依などを条件として、それぞれの教会堂・牧師館に戻ることを認める、という言わ
ば、追放された牧師たちへの懐柔策(かいじゅうさく)でした。 もっとも、そのような筋金入りの牧師たちの中で妥協する者は、 第一信仰自由令(1669
年)でも 第二信仰自由令(1672年)でも僅かでした。[78] しかしながら、第三信仰自由令(1679年)、第四信仰自由令(1688年)と回を重ねていく間に
も、激しい迫害は継続され、また、カベナンター軍がボスウェル・ブリッジの戦いで国王軍に敗退し(1679年6月)、さらに、翌1680年には指導者のリ
チャード・キャメロンが国王軍との戦闘で戦死し、更に、1681年には もう一人の有力指導者だったドナルド・カーギルが処刑される、といった厳しい状況
が、牧師たちにとっては、信仰自由令に妥協する圧力になっていったことは、容易に想像がつくことです。
カベナンターの武装蜂起
チャールズ2世の政府は、主教制とエラストス主義を推進を、議会の法制化によって正当化するだけでは満足せず、長老主義を固持しよ
うとする牧師の教会堂・牧師館から追放することまで行ったことは前述の通りです。 それに加えて、国王側は、竜騎兵 (“dragoons”)をスコットランド各地に派兵して、主教制を受け入れない人々を 武力を用いて屈服させようとします。 迫害にたまりかねたカベナン
ターたちは、1666年11月、ついにラリオン・グリーンで武装蜂起しますが、国王側に敗北を喫します。 (ラリオ
ン・グリーンの戦い)その後の、武装蜂起には、国王軍を敗退させた1678年のドラム・クロッグの戦いがあります。 また、翌
1679年のボスウェル・ブリッジの戦いでは、迫り来る国王軍を前に、カベナンターの間に議論がわき起こり、戦闘準備も不十分の状態で交戦
が始まってしまい、結局、カベナンター軍は完敗します。
翌1680年6月4日には、ドナルド・カーギルによって起草されたとされる『クイーンズフェリー意見書』(“The Queensferry
Paper”)が公になります。これは、(後代、カメロン派としても知られるようになる)改革長老教会の先駆者たちの信仰宣言でした。 また、同
6月22日には、リチャード・キャメロンのペンによる『サンカル宣言』("Sanquhar
Declaration”)が、サンカルの町の市場中央に貼り付けられます。 これは、公然とスチュアート王朝を非難し、チャールズ2世が国王としては不適
格であると謳った 激しい文書でした。
それらは「火に油を注ぐ結果を招[く]」[79]こととなって、前述のように、キャメロンは同年、国王軍との戦闘で戦死し、また、首に懸賞まで掛けられておたずね者の扱いをされた
カーギルも、翌1681年にエジンバラで処刑されます。
地下教会化していたカベナンターの集会群(“Societies”)が、初めて定期的な全体会議を持ったのは、この頃のことです。[80]
弁明の宣言 (1684年)[81]
1684年、リチャード・キャメロンの流れを汲む、改革長老教会の源流となる人々は、オランダ留学から帰国した青年牧師ジェー
ムズ・レンウィック[82]の指導の下で、彼の起草による<弁明の宣言>(1684年)を発表します。 これは、カベナンターへの「迫害が忍耐
の限度を越えて…いまや自己防衛が教会の義務と認められなければならなくなった。」[83]こと、また、「人を欺き、裏切って、血にまみれた金儲けを事とするスパイ[は」、処分されなければならない」[84]ことを宣言する、切羽詰ったものでした。
これに対抗すべく枢密院が同年11月に発布した法令が 通称「血まみれ法令」(“The
Bloody Acts”) で、これは「<弁明の宣言>を撤回することを拒む者は、二名の証人さえいれば、即座に、その者を死刑にすることができる。」[85]という恐ろしい内容のものでした。 国王軍の兵士達は、この法令を盾に、カベナンター狩りへとスコットランド国中に散っていきまし
た。
ほどなくして、チャールズ2世は死去(1685年)しますが、今度は、彼の弟で「頑固な教皇主義者」[86]のジェームズ7世[87]が即位(同年)します。 彼は、最後と信仰自由例となる第四信仰自由令を発布しますが、[88]「[キャ]メロン派は あくまで抵抗の姿勢を崩さず、[前述の青年牧師]レンウィックは、1688年2月、断頭台の露と消え、最後の殉教者となりました。」[89]
後述するオレンジ公ウィリアムのイングランド上陸は、わずか9ヶ月後の 同年11月のことでした。
7.名誉革命から改革中会の設立まで(1688〜1743年)
オレンジ公ウィリアムのイングランド上陸(1688年)
1688年6月、チャールズ2世の後継者となった国王ジェームズ(7世[スコットランド]、2世[イングランド])に息子が誕生したことで、ブリテン島には動揺が走ります。 なぜならば、このままでは、教皇主義者(ローマ・カトリック)の国王
が今後、何世代にもわたって君臨する懸念がでてきたからです。
そのようなブリテン島の動静を見て、対岸国オランダのオレンジ公夫妻は同年11月5日、軍隊を従えて海を越えて上陸
します。
他方、スチュアート朝の国王ジェームズは逃亡し、結局フランスに亡命します。 (名誉革命 “The
Glorious Revolution”)
名誉革命体制の礎(1688年〜1690年)[91]
1688年の12月までに、「スコットランドの枢密院は自らの意志で解散し、28年に及ぶ スコットランドにおける恐怖政治と迫害
の歴史に終止符が打たれます。」[92] そして、翌1689年の初頭になると、スコットランドでは、身分の高い者による臨時議会 (“The Convention [of the
Estates]”[93]
) が開催されて、「1689年4月11日付けで、[オレンジ公夫妻]をスコットランドの国王と女王として宣言します。」[94]
さらに、1690年になると、スコットランド議会( ”The Parliament”)は正式に法案[95]を可決して、<ウェストミンスター信仰告白>を批准、<黄金法>(1592年)も回復します。 あわ
せて、<牧師推薦権>と<国王至上権>も廃止されました。[96] (長老主義の復活)
名誉革命体制が解決しなかった事柄(1):牧師推薦権廃止の不徹底
名誉革命の際に、牧師推薦権(“Patronage”[97])制度は廃止されました。 とはいえ、この権限は「小会と地主の手に委ね[られる]」[98]ことになり、「教会のみが持ちうる権限を[地主にも]与える」[99] という問題を孕(はら)むこととなります。
名誉革命体制が解決しなかった事柄(2):国王による教会大会召集権存続
もう一つは、164