RPHistry-m.doc

Student:  Katsunori Endo

February 26th, 2003 

 

改革長老 (カベナンター)教会成立の歴史

スコットランドの国民契約(1638)から改 革中会の設立(1743)まで

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遠 藤克則(日本中会・神学研修生)

 

 

 

改革長老(カベナンター[1])教会成立の歴史 [2]

スコットランドの国民契約(1638) から改革中会の設立 (1743)まで

 

 

目次

 

        T 序

        U スコット ランドの教会史とカベナンター:国民契約

(1638年)から改革中会成 立(1743年)まで

 

        V まとめ 

 

        補遺(@)  アイルランドと北米大陸への展開

 

        補遺(A)  スコットランド教会史の略年表:

国民契約から改革中会の成立ま で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

I. 序

 

改革長老(カベナンター)教会という、世界のプロテスタント教会の中でも目立たない、そして、ある意味で奇異ともいえる教会の形成 の歴史を辿ることは、単なる懐古趣味でしょうか。 また、どんな意味があるでしょうか。 

さて、私たちキリスト者は、キリストに向かって「私の主、私の神。」(ヨハネ福音書20:28)と告白する者です。 が、私たち が、教会はもとより 生活の全領域でキリストを<神>と信じキリストを<主>として従っていく過程で、喜びとともに、困難や悲しみが避けられません。 初 代教会の聖徒たちも、その双方を経験しました。 そのような、「多くの証人たち」(ヘブル書12:1)が教会の歴史にはいます。 

そして、文字通り、命がけの状況で、キリスト者の生き様を証した人々が、17世紀のスコットランドの歴史に登場します。 カベナン ターたちです。 無論、私たちは17世紀のスコットランドに生きているわけではありません。 しかしながら、王キリストの支配を拒む者は、いつの世にも存 在します。 自らが神にならんとする倒錯した欲望が人間にあります。 これは17世紀後半のスコットランドの国王たちにあっては、国家と教会との両方の首 領(ドン)たらんとしたことにおいて顕著に現われましたし、これからも 時と場所を変えて起こり得ることです。 カベナンターたちの歴史から学ぶ意義が、 今を生きる私たちにもある所以です。  

 

 

 

II. スコットランドの教会史[3]とカベナンター : 国民契約 (1638年)から

改革中会成立(1743年)ま で [4]

 

 

1.スコットランド第2宗教改革までの道のり:1637年以前

 

スコットランドの宗教改革は、まずジョン・ノックスらの働きによって、その礎が築かれたことはよく知られています。[5] とりわけ、1560年の議会による『信仰告白』と『第一規律書』の採択によって、「スコットランド教会としては、教皇をも至上権 を持つ国王をも、いずれもいただかない、その唯一の王はキリストである・・・」[6] ことを明言したことは、注目に価しましょう。[7] 通常、宗教改革の核心といえば、「信仰のみ」・「恵みのみ」・「聖書のみ」の原則、と言えますし、それは至極正しい理解ではあり ますが、スコットランドにおいては、「キリストのみ」[8]の原則が 救いの教理(「キリストのみが救う!」だけではなく、教会政治の分野にも強く主張された(「キリストのみが君臨す る!」)わけです。 また、これこそが、長老主義の勘所と言い得ましょう。[9]

 

さて、その後、スコットランドの宗教改革は火はアンドリュー・メルビルらに受け継がれ、長老主義が普及します。 が、17世紀に 入って、イングランド女王のエリザベス1世の死去に伴い、スコットランド王のジェームズ6世がロンドンに移り、ジェームズ1世(1603年〜)としてイン グランド王を兼ねるようになった頃から、事態が悪化していくことになります。 すなわち、ジェームズ1世は、これまでのスコットランドの長老主義者たちへ の好意的な態度を改めて、むしろ、非難、そして、迫害をするようになります。 イングランド王国の王冠と教会の頭の地位の二つを同時に我が物にした彼に とって、スコットランドの長老主義(教会の頭たるキリストが長老によって教会治める)が疎ましく思われるようになったことがわかります。[10] そして、彼の死(1625年)により、その跡を継いだ息子のチャールズ1世の治世になっても、方向性は改まりませんでした。 そ の最たるものは、イングランド教会のロード大主教の影響の下で作られた 反・長老主義の『教会法規集』[11](1635年5月)の公布と カトリック的色彩の濃い『礼拝式文』[12]への遵守が枢密院によって布告された(1636年11月)ことです。しかも、この国王の名による命令に違反する者には処罰が加えら れることになりました。[13]  そして、「そうこうするうちに、憤激の感情が[スコットランド]国民のうちにうつぼつと高まって」[14] いったのです。

 

 

2.国民契約(1638年)[15]

 

このような時代を背景に、1637年7月23日、セント・ジャイルズ教会での騒動が勃発します。 すなわち、ロード大主教が導入した新しい『礼拝式文』によって礼拝が執 り行われようとしていた際に、言い伝えではジェニー・ゲディスという信徒の女性が、それを朗読する司祭長に目掛けて、膝付き用クッションを投げつけた、と される事件です。[16]  

 

そして、「この出来事は [スコットランドの] 国全体に、召集ラッパとして鳴り響きました。」と、トマス・ブラウンが書いているように、これが引き金となって、スコットランドの 全土に 『礼拝式文』拒否の流れが広がっていきました。 そのような大きなうねりの中から、1638年2月、国民契約の締結 へと歴史が進んでいくわけです。 

 

この国民契約は、アレキザンダー・ヘンダーソン と ウォリストオンのジョンストンとによって起草され、その主眼は 「1592年当時の長老主義を復興すること」[17]にありました。 つまり、「教皇主義に抵抗することを義務づけ、長老主義を反逆とする嫌疑からまもり、真に改革された宗教を告白 し、それへの服従を徹底するという厳粛な約束を含むもの」[18]でした。 また、この契約には、サザランド伯爵をはじめとする貴族やあらゆる階層のスコットランドの国民が署名に臨んだことからも わかるように、多くの人たちには、信仰上の自由とスコットランドの独立が、チャールズ1世が君臨するイングランドからの政治的圧力によって侵害されてい る、[19] と感じてられていたことが見て取れます。[20]

 

 

3.グラスゴー大会(1638年)[21]

 

同年の11月、スコットランド教会[22] は「36年ぶりに[政府の管理から]自由な大会を開催」[23]することに成功します。 そこで決議されたことは、「1592年に・・・長老主義教会の樹立を定めた<黄金法>の体制を固守するこ と、国王の後ろ盾で主教に任命された人々を解任すること」[24]などでした。 言い換えれば、「司教制と[国王が教会の頭であるという]国王至上権を支持する全法令が無効と宣せられ、」[25] あのカトリック的な『礼拝式文』も廃止されました。[26]  更に、このグラスゴー大会は1606年から1618年までに国王の管理下の大会でなされた決議を、教会への国王政府の不当な介 入であったとして無効を宣言しました。[27]

 

これは、教会の頭であるキリストは 長老達によって教会を治められ、国王といえども神様からの長老達に託された権能を侵害できな い、という長老主義の根幹に関わる決定でした。[28]

 

4.厳粛な同盟と契約(1643年)[29]

 

1638年の一連の動きを見て危機を察知したチャールズ1世は、「大会が終わるやいなや・・・戦争を仕掛け、契約に署名した者たち を 力ずくで圧倒する決意をします。」[30]  これが、<第一次主教戦争>(1639)の勃発です。 国王軍はスコットランドへの侵入を試みますが、国土防衛のために急遽立 ち上がったカベナンター(契約派 “Covenanters”)軍に敗退します。[31] 

 

が、懲りるということを知らないチャールズ1世は、再び兵を進めようとします。1640年の<第二次主教戦争>です。 そして、国 王軍が再びカベナンター軍に敗北したため、チャールズ1世は「賠償金支払いのため、同11月、いわゆる[イングランドの]長期議会の開催を余儀なくされ」[32] ます。

 

これを受けて、イングランド議会が11年ぶりに開催される運びとなるわけですが、「議会が開催されるや議員たちは [大主教]ロード=[寵臣]ストラフォード体制に対する批判を厳しく展開し、・・・議会そのものが、国王に対する反乱の拠点の様相を見せ始め・・・そこで チャールズ1世はロンドンを離れ、オックスフォードに別の議会を設けるとともに、そこに軍を集結し、[1642年8月、] 議会側に内戦を仕掛けたのです。」[33]

 

もっとも、国王側は百戦練磨の正規軍、議会側はアマチュアの義勇軍ということもあって、議会軍は各地の戦闘で劣勢に立たされます。  そして、イングランドの議会側は スコットランドに軍事的支援を求めることに傾き、双方の代表が協議の末、ついに「[1643年8月17日、]  <厳粛な同盟と契約>が、合意を見るに至った・・・。」[34] のです。

 

さて、ここまでは もっぱらイングランド議会側の事情でありましたが、彼らの支援要請を受け入れたスコットランド側には どのよう な思惑があったのでしょうか。 それは、<厳粛な同盟と契約>の文言からうかがい知ることができます。

 

[イングランド、スコットランド、アイルランドが]教理、礼拝、規律、政治の点で、スコットランド教会の改革された宗教を保持することイングランド、アイルラ ンド両王国の宗教を、神の御言葉と最良の改革派諸教会の規範に従って、教理、礼拝、規律、政治の点で改革する・・・。三王国の神の教会を、宗教、 信仰告白、教会政治の形態、礼拝と教理問答教育の指針において、できるかぎり近づけ、統一することに努める。」(松谷訳)[35] 

 

4.ウエストミンスター神学者会議  [イングランド史](1643年〜49年)[36]

 

1640年に再開されたイングランドの議会(「長期議会」と呼ばれている)は、イングランド教会における改革を とりわけ教会政治 や礼拝の面において徹底するために、ウエストミンスター・アベイに神学者達を召集しました。 これを、<ウエストミンスター神学者会議>と 呼びます。 が、その当初の会議の目的は、前述の<厳粛な同盟と契約>のスコットランドとの締結によって、「三王国の神の教会を、宗教、信仰告白、教会政 治の形態、礼拝と教理問答教育の指針において、できるかぎり近づけ、統一する」[37]方向へと大きく軌道修正されることになります。 言い換えれば、会議そのものはイングランドの会議でありつつ、同時に、スコットラ ンドとアイルランドをも視野に入れた会議に様変わりしたわけです。[38]

 

また、<厳粛な同盟と契約>の締結によってもたらされた変化は、スコットランドから特命委員(“Commissioners”) が会議に派遣されることになった点にも表れます。 特命委員とは、イングランド議会に遣わされたスコットランドの「言わば特命[全権]大使」[39]で、議決に参加することはできないものの、発言権が認められていました。 派遣された特命委員は、代表がアレグザンダー・ヘンダー ソン(セント・ジャイルズ教会牧師)、委員がジョージ・ギレスピー(グレイフライアーズ教会牧師)、サミュエル・ラザフォード(セント・アンドリューズ大 学教授、牧師)、ロバート・ベイリー(グラスゴー大学教授、牧師)、アーチボルド・ジョンストン(弁護士、長老)、ジョン・メイトランド(長老。後年、王 政復古とともに国王の忠臣となり、カベナンターを迫害する)でした。[40] 

 

この会議からは、『信仰告白』、『大教理問答』、『小教理問答』、『長老主義政治基準』、『礼拝指針』が生み出されました。[41] スコットランドの教会のウエストミンスター神学者会議への貢献については、まだ多くの研究の余地が残るものの、例 えば、『信仰告白』の30章1節において「主イエス・キリストは教会の頭として、教会のなかに、世俗的為政者とは別に、教会の役者(えき しゃ)による政治を、定められた」[42](松谷訳)と語られるとき、<教会の信仰上の独立>という スコットランド第2宗教改革が命がけでかち取った遺産が受け継がれてい る、と言えるのではないでしょうか。[43] 

 

5.スコットランド第2宗教改革の末期(1648〜1651年)[44]

  

  約定(1648年)[45]

1647年、ハミルトン侯を筆頭とするスコットランドの親王派の貴族たちは、イングランド議会によって幽閉の身にあったチャールズ 1世と ワイト島で密かに会見し、王がイングランドを再び支配することを支援すべく兵を挙げることを約束します。 この密約を<約定>(1648 年)とよび、ハミルトンたちのことを 約定派(“Engagers”)とよびます。 もっとも、この裏取引がほどなくして発覚すると、カベナンター(契約派)の大半が約定派を非難しました。結果的に、 約定派の軍隊はクロムウェル率いるイングランド議会軍に敗れ、指導者のハミルトン侯も処刑されます。 

 

等級法(1649年)[46]

約定派の挙兵と失敗は、スコットランド議会の政治力学にも影響を与えます。そもそも議会の多数派であった親王派に替わって、カベナ ンター(契約派)が議会の主導権を握ることになります。 そこで、スコットランド議会は、前述の親国王の約定派が公職(官吏や軍人)に就くことを禁止する<等 級法>(1649年)を可決し、<厳粛な同盟と契約>をスコットランドの行政においても徹底しようとします。[47] 

 

チャールズ1世の処刑(1649年)とチャールズ2世の帰国(1650年)

この間、チャールズ1世は、1649年に イングランド議会によって処刑されます。 それを受けて、スコットランド議会は、国王の 息子(後のチャールズ2世。カベナンターを迫害する。)と接触します。[48] そして、1650年6月、チャールズ2世(戴冠は 翌年1月)は スコットランドに到着し、1650年8月には 議会の期待どお りに<厳粛な同盟と契約>への恭順を誓約し、[49] スコットランド王としての戴冠への準備を進めていきます。 

 

イングランド共和国軍によるスコットランド侵攻(1650年) 

もっとも、チャールズ2世のスコットランド到着は、スチュアート朝を嫌悪するイングランドの指導者クロムウェル[50] の知るところとなり、ついに、イングランド共和国(“Commonwealth”)[51]軍は 1650年7月にスコットランドに侵攻し、9月にはエジンバラを制します。 そして、1651年にスコットランド軍が完敗し て以降、同国は 1660年の<王政復古>まで イングランド共和国の支配下に入ることを余儀なくされます。

 

6.イングランド共和国治世下のスコットランド(1651〜1660年)

 

公的決議(1651年)[52] を巡るカベナンター(契約派)の内部分裂

クロムウェルの軍隊によるエジンバラ制圧に危機を覚えたチャールズ2世と親王派たちは、スコットランドの国家と教会のあらゆる派閥 や階層からの支持をとりつけようと画策します。 その最たるものの一つが、<公的決議>(1651年)と呼ばれる提案です。 これは、等級 法(1649年)によって公職への道が閉ざされた人々の復権をねらったもので、スコットランド教会の大会は1650年7月にこれを可決してしまいます。  そして、この決定の妥当性を巡って、それを支持する決議派”The Resolutioners[53];後に、その多くが国王側になる。)と、反対する抗議派”The Protestors”[54]とにカベナンター(契約派)は分裂します。 前者は、現実主義者たちで、このような国の危機に際しては、原理原則はさておき、個々 人の信仰的な立場は不問として、とにかく有能な人材(官吏、軍人)を募り、国を護ろう、という考えを持っていました。 他方、後者の抗議派は、等級法に よってクリスチャン政府[55] を維持しようという、あくまでも<厳粛な同盟と契約>の路線を貫こうという人々でした。[56]

 

このような、現実的であろうという人々と 契約に忠実であろうという人々との対立や分裂が、後代の改革長老教会の歴史においても、 それが時と場所とを変えて、歴史で繰り返されます。[57]

 

クロムウェルによる宗教政策 

決議派と抗議派とに分裂したスコットランド教会は、[58]それぞれに大会を持つようになります。 そして、1653年7月、スコットランドをすでに平定し、支配下に置いていたクロムウェル の共和国軍は、決議派の大会(”The Resolutioner General Assembly”)にコットレル中佐を遣わして散会を命じます。[59] 他方、抗議派の大会(“The Protestor General Assembly”)は、当初は継続を認められますが、やがて、これも禁じられます。[60]   クロムウェルは抗議派に対しては理解を示しましたが、抗議派にとって、為政者による教会の大会禁止は認め難いことでした。 が、総 じて、会衆主義(独立派)者たちにはもちろんのこと、長老主義者にとっても、信仰の自由に関しては寛容な時期であったと言えます。 

 

6.カベナンターの受難期(1660〜1688年)

 

  王政復古(1660年)

1658年9月に、イングランド共和国を治めたクロムウェルが死去すると、事態は流動化します。 フランスに亡命していたチャー ルズ2世を、「1660年5月29日、ロンドンでは盛大な祝祭で歓迎しました。 10年ぶりにイングランドの土を踏んだのです。」[61]  これは、王政復古(1660年)として知られます。  特筆すべき点は、この王政復古の際に、チャールズ2世本 人が1651年の新年にスコットランド国王として戴冠する際には誓約した<国民契約>と<厳粛な同盟と契約>への恭順を、今回、国王は明言しなかっ たということです。[62]   また、もう一人の重要人物は、スコットランド出身のジェームズ・シャープです。 彼は、もともとカベナンターでした が、チャールズ2世の右腕となり、アンドリューズ大主教として、主教制(“Prelacy”)をスコットランドに徹底すべく、カベナンターたち(つまり 長老主義者)を迫害していきます。 

 

主教制の樹立:王位至上令(1661年)など [63]

王政復古後、最初のスコットランド議会が1661年1月に開催されます。なお、出席した議員の大半が、悪質分子(”Malignant”[64])だったため、この議会は 嘲笑的に「酔っ払い議会」(”Drunken Parliament”)とも呼ばれています。 さて、この 1661年の「酔っ払い議会」は 王位至上令(1661年)[65]廃棄令(1661年)[66] を可決します。 前者の主眼は、「教会と国家とに対する至上の権威は国王にあること[を謳(うた)い]、恭順の誓約を強要する」[67]ところにありました。 また、後者の廃棄令の主眼は、「1633年以降に議会が制定した法律のすべてを無効とする」[68]ところにありました。 また、1662年の議会では、宣誓破棄令(1662年)[69]が通過し、<国民契約> や <厳粛な同盟と契約>への誓約が非合法とされました。 このように、チャールズ2世は、議会による法 制化という手段を巧みに用いながら、主教制とエラストス主義を推進させて、スコットランドの教会に対する国王の権限を強化 していきました[70]  

 

牧師の追放(1662年)

議会の法制化によって主教制とエラストス主義を推進ようとする国王側が、それを現実面で徹底するために打ち出した政策が、長老主義 の牧師たちの教会堂からの(文字通りの!)追放でした。 1662年10月に国王の枢密院("The Privy Council”)は、「1649年以降に任職された全牧師に対し、11月1日までに[主教]に従う意志を表明する文書を提出させ、それに応じなければ聖職録を没収し、それでも[応じなければ]説教壇から引きずりおろさせる」[71]という法令を出します。 結果的に、数百人(トマス・ブラウンによれば、400人あまり[72])の牧師が、主教の権威のもとに下る(つまり、「教会の頭は国王である。」と認める)ことよりは、講壇を去ることを選びました。  J.G.ヴォスは、潔く追放されることに甘んじた牧師の大多数が 前述の<抗議派>であったことと、その他方で、<決議派>の大半が 主教の権威の下に帰 依したことを挙げて、「これは驚くに当たらない[当然の結末]だ」[73]と評価しています。

  とまれ、このように教会堂と牧師館を追放された牧師たちは、一般家庭や野外で説教を語り続け、[74] 秘密集会"The Conventicles)を形成していきます。そして、この流れこそが、厳しい迫害やいくつかの紆余曲折をへた後に、改革長老中会(1743年に成立)へ と受け継がれていくことは、後で触れます。

 

カベナンターに対する圧力: 信仰自由令(1669年以降4回)など

1665年10月に、枢密院は前述の秘密集会("The Conventicles)を持つことも参加することも禁ずる法令を出します。 また、それを破ったものには投獄を含む罰則も課せられることに定められまし た。 1670年になると、議会は「血だらけ法」("The Bloody Law” [75])とも呼ばれる秘密集会の取り締まり法を可決します。 罰則は「死刑と財産没収[というもの][76]でした。 が、初代教会以来、歴史を通じて明らかなことは、国家体制側が、どんなにクリスチャンの集会や御言葉の説教を制限しよう としても「御言葉はつながれない」という聖書的な真理です。  

さて、ステュアート朝は 王政復古(1660年)から名誉革命(1688年)で失脚するまでの間に、四つの<信仰自由令> (“The Indulgences” )を発布します。[77] これらは、追放された牧師たちが、主教制への帰依などを条件として、それぞれの教会堂・牧師館に戻ることを認める、という言わ ば、追放された牧師たちへの懐柔策(かいじゅうさく)でした。 もっとも、そのような筋金入りの牧師たちの中で妥協する者は、 第一信仰自由令(1669 年)でも 第二信仰自由令(1672年)でも僅かでした。[78] しかしながら、第三信仰自由令(1679年)、第四信仰自由令(1688年)と回を重ねていく間に も、激しい迫害は継続され、また、カベナンター軍がボスウェル・ブリッジの戦いで国王軍に敗退し(1679年6月)、さらに、翌1680年には指導者のリ チャード・キャメロンが国王軍との戦闘で戦死し、更に、1681年には もう一人の有力指導者だったドナルド・カーギルが処刑される、といった厳しい状況 が、牧師たちにとっては、信仰自由令に妥協する圧力になっていったことは、容易に想像がつくことです。 

 

カベナンターの武装蜂起

チャールズ2世の政府は、主教制とエラストス主義を推進を、議会の法制化によって正当化するだけでは満足せず、長老主義を固持しよ うとする牧師の教会堂・牧師館から追放することまで行ったことは前述の通りです。 それに加えて、国王側は、竜騎兵 (“dragoons”)をスコットランド各地に派兵して、主教制を受け入れない人々を 武力を用いて屈服させようとします。 迫害にたまりかねたカベナン ターたちは、1666年11月、ついにラリオン・グリーンで武装蜂起しますが、国王側に敗北を喫します。 (ラリオ ン・グリーンの戦い)その後の、武装蜂起には、国王軍を敗退させた1678年のドラム・クロッグの戦いがあります。 また、翌 1679年のボスウェル・ブリッジの戦いでは、迫り来る国王軍を前に、カベナンターの間に議論がわき起こり、戦闘準備も不十分の状態で交戦 が始まってしまい、結局、カベナンター軍は完敗します。 

翌1680年6月4日には、ドナルド・カーギルによって起草されたとされる『クイーンズフェリー意見書(“The Queensferry Paper”)が公になります。これは、(後代、カメロン派としても知られるようになる)改革長老教会の先駆者たちの信仰宣言でした。 また、同 6月22日には、リチャード・キャメロンのペンによる『サンカル宣言』("Sanquhar Declaration”)が、サンカルの町の市場中央に貼り付けられます。 これは、公然とスチュアート王朝を非難し、チャールズ2世が国王としては不適 格であると謳った 激しい文書でした。 

それらは「火に油を注ぐ結果を招[][79]こととなって、前述のように、キャメロンは同年、国王軍との戦闘で戦死し、また、首に懸賞まで掛けられておたずね者の扱いをされた  カーギルも、翌1681年にエジンバラで処刑されます。 

地下教会化していたカベナンターの集会群(“Societies”)が、初めて定期的な全体会議を持ったのは、この頃のことです。[80]

 

弁明の宣言 (1684年)[81]

1684年、リチャード・キャメロンの流れを汲む、改革長老教会の源流となる人々は、オランダ留学から帰国した青年牧師ジェー ムズ・レンウィック[82]の指導の下で、彼の起草による<弁明の宣言>(1684年)を発表します。 これは、カベナンターへの「迫害が忍耐 の限度を越えていまや自己防衛が教会の義務と認められなければならなくなった。」[83]こと、また、「人を欺き、裏切って、血にまみれた金儲けを事とするスパイ[は」、処分されなければならない」[84]ことを宣言する、切羽詰ったものでした。 

これに対抗すべく枢密院が同年11月に発布した法令が 通称「血まみれ法令」(“The Bloody Acts”) で、これは「<弁明の宣言>を撤回することを拒む者は、二名の証人さえいれば、即座に、その者を死刑にすることができる。」[85]という恐ろしい内容のものでした。 国王軍の兵士達は、この法令を盾に、カベナンター狩りへとスコットランド国中に散っていきまし た。  

ほどなくして、チャールズ2世は死去(1685年)しますが、今度は、彼の弟で「頑固な教皇主義者」[86]のジェームズ7世[87]が即位(同年)します。 彼は、最後と信仰自由例となる第四信仰自由令を発布しますが、[88][キャ]メロン派は あくまで抵抗の姿勢を崩さず、[前述の青年牧師]レンウィックは、1688年2月、断頭台の露と消え、最後の殉教者となりました。」[89] 

後述するオレンジ公ウィリアムのイングランド上陸は、わずか9ヶ月後の 同年11月のことでした。  

 

7.名誉革命から改革中会の設立まで(1688〜1743年) 

 

オレンジ公ウィリアムのイングランド上陸(1688年)

1688年6月、チャールズ2世の後継者となった国王ジェームズ(7世[スコットランド]、2世[イングランド])に息子が誕生したことで、ブリテン島には動揺が走ります。 なぜならば、このままでは、教皇主義者(ローマ・カトリック)の国王 が今後、何世代にもわたって君臨する懸念がでてきたからです。 

そのようなブリテン島の動静を見て、対岸国オランダのオレンジ公夫妻は同年11月5日、軍隊を従えて海を越えて上陸 します。 

他方、スチュアート朝の国王ジェームズは逃亡し、結局フランスに亡命します。 (名誉革命  “The Glorious Revolution”

 

名誉革命体制の礎(1688年〜1690年)[91] 

1688年の12月までに、「スコットランドの枢密院は自らの意志で解散し、28年に及ぶ スコットランドにおける恐怖政治と迫害 の歴史に終止符が打たれます。」[92]    そして、翌1689年の初頭になると、スコットランドでは、身分の高い者による臨時議会 (“The Convention [of the Estates]”[93] ) が開催されて、「1689年4月11日付けで、[オレンジ公夫妻]をスコットランドの国王と女王として宣言します。」[94]    さらに、1690年になると、スコットランド議会( ”The Parliament”)は正式に法案[95]を可決して、<ウェストミンスター信仰告白>を批准<黄金法>(1592年)も回復します。 あわ せて、<牧師推薦権>と<国王至上権>も廃止されました[96] (長老主義の復活) 

 

名誉革命体制が解決しなかった事柄(1):牧師推薦権廃止の不徹底

名誉革命の際に、牧師推薦権(“Patronage”[97])制度は廃止されました。 とはいえ、この権限は「小会と地主の手に委ね[られる][98]ことになり、「教会のみが持ちうる権限を[地主にも]与える」[99]  という問題を孕(はら)むこととなります。 

 

名誉革命体制が解決しなかった事柄(2):国王による教会大会召集権存続

もう一つは、1647年にスコットランド教会の大会がウェストミンスター信仰告白を採択したときに、同大会が 信仰告白31章2項 (国王による教会大会召集権)に関して認識していたところの課題です。 すなわち、教会が紛争中か未設立であるような、異常な状況の下での大会(“a synod”)の召集権限を、国王(為政者)に認めるというものです。[100] このような、本来は例外的な権限について、名誉革命体制は「法制化しなかったために、国王は[信仰告白31章2項に基づき] いぜんとして、大会を召集したり延期する権限を、今後も主張できることに」[101]  なっていた点を、ブラウンは欠陥として指摘します。[102]  

 

名誉革命体制が解決しなかった事柄(3):廃棄令(1661年)の温存

さて、カベナンターにとって、何にもまして 名誉革命体制が受け入れ難いものであった理由は、<廃棄令>(1661年)が手付かず のままだったことと密に関連しています。 前にも述べましたが、この<廃棄令>の主眼は、1633年以降に議会が制定した法律のすべてを無効とすることに ありました。 ですから、この法令によって、<国民契約>(1638年)と<厳粛な同盟と契約>(1643年)とが、糾弾の対象とされていたのです。 し かしながら、名誉革命は、この悪法である<廃棄令>を撤回することをしなかったのです。[103] 言い換えれば、スコットランド第2宗教改革期に達成した<契約>(“The Covenants”)に基づく改革(リフォメーション)の原理が無視された、ということです。 これは後で触れることでもありますが、1743年に、カ ベナンターたちが、名誉革命体制下で再建された“新生”スコットランド教会には加入(“復帰”ではなく)せずに、あえて改革中会を設立 (“離脱”ではなく)する背景を理解するためには、大事な要素です。[104] 

 

“新生”スコットランド教会からの最初の離脱 (1733年) 

牧師推薦権(“The Patronage”)は、名誉革命の際に廃止されたことは既に見ました。

ところが、イングランドとの統一(1702年)を経た1712年にもなると、事態は再び逆戻りし、スコットランド教会に牧師推薦権 制度が復活します。[105] 

しかし、1730年代に入った頃から「穏健主義が台頭し始め、間もなく会衆の声[招聘]を支持する福音派の努力にもかかわらず、その声は次第に抑えられるように[なって、][106] 次第に「[牧師招聘制度よりも、牧師]推薦権制度支持者のほうが優位を占め始め[][107]いきます。 

このような背景が引き金となって、1733年、ついに、スコットランド教会からの最初の離脱(“The Secession”)がなされます。 推薦権制度を潔し としない人々の指導者はエベネゼル・アースキンという牧師で、大勢の支持者が同調しました。[108] アースキンらと共に国教会に決別して、<連合中会>(“Associate Presbytery”)を形成した人々を シセーダー (“The Seceders”) と称します。 シセーダーとカベナンターとは共通の教会的特徴を少なからず受け継いでいました。[109] が、シセーダーは、神に対して<契約>を交わして(“covenanting”)いないスコットランド政府の正統性を認めていた所に相違点がありました。[110] 

 

後日談としては、この離脱から、236年後の1969年、北米大陸に移住した シセーダー[111]の一部で ペンシルベニア州やカンザス州などに点在していた<連合長老大会>(“Associate Presbyterian Synod”) が、同様に、北米に移住していた  カベナンター(キャメロン派の流れ)直系の子孫で、唯一、吸収・合併から免れていた<北米改革長老教会>(“Reformed Presbyterian Church of North America (RPCNA)”)の傘下に入る、ということがおきました。[112]  

 

改革中会の設立(1743年)

話は、名誉革命体制後のカベナンターたち(後年、改革中会を設立する人々)に戻ります。 彼らは、そもそも“新生”スコットランド 教会(国教会)に参画することを拒絶しました。 したがって、1733年に離脱した <シセーダー>とも、更には 19世紀になってから離脱した <ス コットランド自由教会>とも異なった原理が働いていて、それが国教会との隔たりを生み出していたことを知る必要があります。 すなわち、カベナンターたち の拘りとは、先に「名誉革命体制が解決しなかった事柄(3)」でも触れた点、つまり、<国 民契約>(1638年)と<厳粛な同盟と契約>(1643年)への誓約、言い換えれば、神に対して誓った“契約”への忠誠と深く関わっていました。[113] 名誉革命体制によって再建された“新生”スコットランド教会は、カベナンターたちの求める 第2宗教改革期の“契約した”(“covenanted”) スコットランド教会ではなかったのです[114] よって、彼らが 1712年に<国民契約>と<厳粛な同盟と契約>とへの契約を更新したことは、彼らの強い思いを示しています。 (アーキンソー契約更新  Auchensaugh Renewal” [115]

 

とはいえ、カベナンターたちが、名誉革命の初期に 独自の教会(大会、中会)を設立する方向にも進みませんでした。[116] むしろ、彼らは1681年以降、<集会連合>(The United Societies と呼ばれる 非公式な集会連合体として、名誉革命を経た後も存続していました。 

しかも、1706年にジョン・マクミランが牧師として就任するまで、按手された牧師(教師)が一人もいないという、 非常状態が1690年から続いていたのです。 そして、この非公式な集会連合が正式に改革中会[117]として設立するのは、ジョン・マクミランに加えてトマス・ネアンという牧師が加入して、計2名の牧師が 長老たちの 輪(彼ら以外は、治会長老)に加わってからのことでした。[118] 1743年8月1日のことです。 

 

 

V.  まとめ

 

改革中会("Reformed Presbytery”)の設立は、第2宗教改革期のように スコットランドの教会と国家が「キリストの冠と契約のために」仕えることを誓った立場を放棄 したという悲しい現実を、 カベナンターたちが追認したことを意味し、[119] これ以降、改革中会(カベナンター)は はからずも 事実上“教派の一つ”としての道を踏み出すのでした。[120] 

 

今日、私たちプロテスタントのクリスチャンの大半が  −とりわけ欧米の諸教派の宣教地であった日本では− 教派(単立の教会も含めて)どれか一つに属しています。 また、それは、疑問 の余地のない“常識・前提”ともなっています。

そして、これは、唯一の王(仲保者)なるお方 主キリストに連なる神の民の豊かな多様性のリアリティーを示すものとして、感謝すべ きことでしょう。

しかしながら、王キリストが教会の頭(かしら)として、ご自分の教会を治められるように、今、全世界をも治めておられることを信じ るならば、ひとり国家(そして為政者)だけが神の支配が届かないような、さしずめ、“治外法権”の領域にある、ということは あり得ないことです。 

 

スコットランドのカベナンターたちは、キリストのみに帰されるべき この王権(あるいは“The Divine Right”)の主張を、[121]当時の国家権力にさえ 命がけで訴えた「証人たち」でした。

 

我々の“常識・前提”からすれば、極めて 偏狭な教派と 理解されがちな、カベナンターの“超・教派”的ともいえる壮大なビジョン と生き様から、今を生きる私たちが学び、かつ、倣うものは少なくないと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

補遺(@):アイルランドと北米大陸への展開 

 

1 .  アイルランド改革長老教会の 生い立ち:[スピア教授の講義録に依拠[122]]  

 

   1607年 アルスター地方 (北アイルランド)へのスコットランドからの殖民

 

   1642年 アイルランド蜂起:国王チャールズに対しての反乱

   1644年 アイルランドの長 老主義者(“Presbyterians”)たちが

<厳粛な同盟と契約>に誓約する

   1679年 アレグザンダー・ピーダン牧師がアルスター地方で宣教:

カベナンターの集会群(“societies”)と接触する

 

   1692年 デイビッド・ヒューストンがカベナンターの集会群を

まとめる

 

   1712年 <アー キンソー契約更新>にアイルランドのカベナンターの

集会群からも代表が参加 

 

   1744年 アイルラン ドのカベナンターの集会群が、前年に(スコット

ランドで設立された)改革中会の教会政治の下に入る

   1760年 ウィリアム・マーチンが牧師として按手を受ける:

         彼は後年、 北米のキャロライナに移住 

 

   1763年 ア イルランド改革中会の設立: 1761年に(スコット

ランドの改革中会が採択した)『証 言書』(“Act, Declaration,

and Testimony of 1763” ) を教会規準として採択 

 

 

 

 

 

 

   2 .  北米(特に、後の合衆国)の 改革長老教会に生い立ち:[スピア教授の

講義録他に依拠[123]]

 

 

   17世紀    ・ カ ベナンターの植民地がサウス・キャロライナに

一時期(1684−86年)形成される

           ・  24名のカベナンターの囚人がニュー・ジャージーに

             送 られる (  1685年 [スコットランドでは

“殺戮時代”]

 

     1729年 ・  5,600名の スコッチ=アイリッシュの移民 が

             現 在のペンシルベニアに渡る

 

     1751年 ジョ ン・カスバートソン牧師(スコットランド改革中会)

がデラウェアに到着: 後の 1782年に、北米での最初の

シセーダー教会とカベナンター 教会の合併が起きた際には、

統合された “Associate Reformed Church” (1782-1858) に

加わる[124]

 

     1771−73年

 

・ 3万人がアルスターから北 米に移住 

 

 

     1774年 最 初の改革中会が設立される

           もっとも、その後、その存在自体が不安定となる

     1798年 改 革中会がフィラデルフィアで改めて設立される

           今日の  “Reformed Presbyterian Church of North

                                            America (RPCNA)” の原点 

 

     1807年 『証 言書(“Testimony”)と『聖餐規定(“Terms of

                                             Communion”) を制定: 1926年まで用い られる

 

     1809年 シノッドを形成 

     1833年 旧 光派と新光派への分裂[125]:前者が 現在のRPCNA

引き継がれる流れ。[126]

 

 

 

 

補遺(A):スコットランド教 会史の略年表:国民契約から改革中会の成立まで

 

 

   1638年 ・国民契約

 

         ・スコットランド教会のグラスゴー大会

   1639年 ・第一次主教戦争 

   1640年 ・第二次主教戦争 

   1643−49年

         ・ウェスト ミンスター神学者会議 [イングランド]

 

1643年 ・厳粛な同盟と契 約

 

   1647年 ・スコットラン ド教会がウェストミンスター信仰告白を批准

 

   1648年 ・約定

 

   1649年 ・等級法

 

       ・チャールズ1世の処刑[イングランド]

1650年 ・チャールズ2世 が帰国(6月)し、<厳粛な同盟と契約>

           への帰依を誓約(8月) 

 

         ・クロム ウェルのイングランド共和国軍がスコットランドに

侵攻(7月) 

 

   1651年 ・公的決 議:決議派と抗議派に分裂

 

   1653年 ・スコット ランドを占領したクロムウェルの共和国軍が

             決議派の大会を禁止 

 

   1658年 ・クロム ウェル死去

 

   1660年 ・王政復古

 

   1661年 ・王位至上 令

 

         ・廃棄令

 

 

   1662年 ・宣誓廃棄 令

 

         ・主教制を 受け入れない牧師が教会堂から追放される

 

   1665年 ・秘密集会 の禁止

 

   1666年 ・ラリオ ン・グリーンの戦い

 

 1669年 ・第一信仰自由令

1672年 ・第二信仰自由令

   1679年 ・ドラム・ クロッグの戦い 

 

         ・ボスウェ ル・ブリッジの戦い

 

         ・第三信仰自由令 

 

   1680年 ・クイーンズフェ リー意見書(ドナルド・カーギル)

 

         ・サンカル宣言(リチャード・ キャメロン) 

 

   1681年 ・最初のカベナ ンター集会群の全体会議 

 

   1684年 ・弁明の宣言 (ジェームズ・レンウィック)

 

         ・血まみれ 法令 

 

   1685年 ・チャール ズ2世の死去 

 

         ・ジェームズ7世の戴冠  

 

   1688年 ・ジェーム ズ・レンウィックが処刑される

 

         ・第四信仰 自由令

 

         ・オレンジ公ウィリアムの上陸(名誉革命) 

 

   1690年 ・スコットラン ド議会はウェストミンスター信仰告白を批准し、

             黄金法(1592年)を回復   (長老主義の回復): 

             <牧師推薦権>と<国王至上 権>も廃止

   

   1702年 ・イングランドと の統一

 

1712年 ・牧師推薦権の復 活

 

    カベナンターの集会連合が、 <国民契約>と<厳粛な同盟と

      契約>への契約更新 (アーキンソー契約更新) 

 

   1733年 ・最初の離脱(エ ベネゼル・アースキンと“シセーダー”) 

 

   1743年 ・カベナン ターの集会連合が、改革中会を設立

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



<注> 

[1]      現在、改革長老教会カベナンターを 同義語のごとく扱うこともありますが、厳密に言えば、

   正式に改革長老教会 - より正確には 改革中会(Reformed Presbytery) - として成立する1743年

  以前から、カベナンターは存在していました。   なぜなら、歴史的に、カベナンターとは、

国民契約(1638)および厳粛同盟と契約(1643)の誓 約を命がけで固守しようとした人々の

ことだからです。 (松谷好明氏の春日井教会信徒神学講座の講義録『ウ エストミンスター神学者

        会議と信仰 基準』18−19頁を参照。) 

[2]   本論は、説教免許試験の一環として 北米改革長老教会(RPCNA)・日本中会から筆者に課された

ものです。 中会からは、改革長老教会の信徒の皆さんが 読まれることを念頭に置いて書くことも

条件に加えられましたので、論文として議論を展開することよりも、 <カベナンター史・入門>と

なるように書きすすめました。 なお、筆者個人の解釈や評価はでき るだけ末尾の注(Endnote) で行う

ように努めています。 

[3]  「スコットラ ンド教会史」と(“の”抜きで)題することも可能ですが、今日、スコットランド

教会(The Church of Scotland) として現存する教会の歴史との混同を避けるために、かかる表記を

便宜的に採用しました。 

[4]   本論 第II章の前半、すなわちウェストミンスター会議までの流れについては松 谷好明氏の研究書に、

また、その後半の歴史概観は Thomas Brown, Church and State in Scotland (1891) Johannes G. Vos

ウェストミンスター神学校提出のTh.M論文を土台にしたThe Scottish Covenanters  (1940) とに

その多くを依拠しています。 

[5] 1560年から1567年までは しばしば スコットラン ドの第1宗教改革期と称されます。

[6]  トマス・ブラ ウン『スコットランドにおける教会と国家』(松谷好明訳、すぐ書房、1986年) 

26頁   [下線は筆者(遠藤)。なお、本書は 注3で言及した書籍の邦訳でも あります。] 

[7]  上掲書の26 頁にもあるように、当時のイングランド教会においては、国王が教会の頭とされて

いました。 (なお、今日、イングランド教会の頭は女王エリザベスII世です。)

   なお、第1宗教改革期の概要については、故増永敏雄氏が『つのぶえ』誌に1970年当時

寄稿された論文(『スコットランド・カベナンターの歴史』)等を参 照下さい。 

[8]     契約神学の枠組みにおける<恵みの契約>と密接に関連する仲保者キ リスト論を前提とした

  「キリストのみ」であって、近代神学のキリスト論集中と混同してはならないでしょう。

[9]  長老は、教会 の頭たる王キリストに仕える者であって、単なる“会衆選出の権益代表”ではない

わけです。

[10]  松谷好明、『ウ エストミンスター神学者会議の成立』(一麦出版社、1992年) 108頁

[11]  たとえば、国 王の教会における至上権が謳われました。(松谷、上掲書 114頁を参照)

[12]     The Liturgy の訳 語

[13]  ブラウン、『ス コットランドにおける教会と国家』  109頁

    松谷、『ウエストミンスター神学者会議と信仰基準』  13 −16頁

[14]  ブラウン、『ス コットランドにおける教会と国家』  110頁

[15]  The National Covenant の訳語

[16]    上掲書      110頁

   もっとも、本当にジェニー・ゲディスという名前の女性だったかどうかについて、歴史的な確証は

   薄らいでいるようです。

[17]     Wayne R. Spear    Class Syllabus [unpublished]

   1592年に、スコットランド議会は 所謂「黄金法」 (“The Great Charter of Presbytery”)を採択

しています。 これは、教会の信仰上の管轄権が国 王でも教皇でもなく中会(“presbytery”)その他

の教会法廷に属するというものでした。

[18]  ブラウン、『ス コットランドにおける教会と国家』  112頁 

   同時に、国民契約は国王への忠誠も謳っており、国民が国王チャールズ1世へ反旗を翻したと

短絡的に見做すことは適切ではないでしょう。 しかも、スチュアー ト朝チャールズ1世には、

同じスコットランド人の血が流れていましたので、スコットランド国 民には、彼が名君ではない

ことはわかっていても、同胞であるチャールズ1世に“身びいき”的 な期待をかけていたとも

推察されます。

[19]  スコットラン ド国王でもありイングランド国王でもあったチャールズ1世は、イングランド教会

   の頭でもあったことを銘記する必要があります。 つまり、イングランドにおいて、彼は王国と

教会の双方の上に君臨していたわけです。 ですから、スコットラン ド側からすれば、これは

単に宗教上の脅威以上のものだったと思料されます。 ただ、そうな りますと、国民契約

署名した者のなかには、純粋に信仰からというよりもスコットランド 王国への愛国心的動機から

行った者もいたと、想定しなければなりません。

[20]  松谷、『ウ エストミンスター神学者会議と信仰基準』  17頁

[21]  The General Assembly of 1638 の訳語

[22]  The Church of Scotland  の訳語

今日現存するスコットランド教会との関係については後述します。

[23]  Johannes G. Vos, The Scottish Covenanters  (Edinburgh: Blue Banner Productions  1998[reprint])   51-52.

       もっとも、大会そのものは 1606年以降1618年までに数度開催されているものの、Vos

これらを「名目上の」、すなわち政府管理下の大会だった、と判断し ています。(同書 52頁)

[24]  松谷、『ウ エストミンスター神学者会議と信仰基準』  17頁

   文中の<黄金法>とは 注13にもある “The Great Charter of Presbytery” のこと。

[25]  ブラウン、『ス コットランドにおける教会と国家』  117頁

[26]  上掲書  117頁 

[27]  Vos, The Scottish Covenanters     53.

        後年、名誉革命体制下で復 興した“新生”スコットランド教会が 1638年のグラスゴー大会ほど

徹底して長老主義確立に拘ったかどうかは評価のわかれるところで す。それこそが、今日現存する

スコットランド教会が、果たしてスコットランド第2宗教改革時代の スコットランド教会の末裔か

否かを判断する鍵でもあると思われます。むろん、改革長老教会の立 場からは、「否」と言うしか

ないでしょう。

[28]  神様に由来 し、神様に帰すべき権能のことを、Ius Divinum (英語では “Divine Right”)とも称します。

   (参照 Vos, The Scottish Covenanters    128.

[29]  The Solemn League and Covenant  の訳語

        カベナンター(“The Covenanters”) の本来の意味は、前述の国民契約(1638年)と 

この厳粛な同盟と契約(1643年)との誓約を守る 者達ということです。

[30]  ブラウン、『ス コットランドにおける教会と国家』  119頁

[31]  この戦いの最 中に、レスリー将軍率いるカベナンター軍の陣営に初めて翻ったのが、「キリストの

王冠と契約のために」という、今日、通称“ブルー・バナー”と、親 しみを込めてよばれる旗です。

(この故事を踏まえ、しかも、ウエストミンスター小教理51問など に明記された礼拝原則に

鑑みると、“ブルー・バナー”は、礼拝堂の内部(とりわけ講壇の近 く)というよりは、外側、

たとえば、教会堂の屋根の上などが<キリストのために戦う教会>と して、より相応しいと

思われます。)

[32]  松谷、『ウ エストミンスター神学者会議の成立』  118頁

[33]  松谷、『ウ エストミンスター神学者会議と信仰基準』 18頁

[34]  松谷、『ウ エストミンスター神学者会議の成立』  119頁   [太字は筆者]

   なお、松谷氏が指摘するように、「これは、二国間の通常の条約ではなく、個々人が神の御前で

誓約する、一種の宗教的盟約であった・・・。」(同書 119頁) という点は、その後の

カベナンターの歩みを理解する上でも重要な要素と思料されます。

[35]  松谷、『ウ エストミンスター神学者会議の成立』  183頁   [下線は筆者]

[36]  後述のよう に、この会議そのものはイングランド議会の権威の下にあり、第一義的には

   イングランド史に属します。 が、スコットランド史の観点からも、重要な出来事ですので、

   躊躇なく 一項目を割きます。

[37]  上掲書   183頁

[38]  神学者会議の 以前からイングランド教会が採用していた信仰告白(『三十九箇条』)と

『ウエストミンスター信仰告白』は基本的に同じである、と言う説明 を聞くことがあります。

たしかに、大局的にはそう言えないこともないのですが、それでは、 何故、あえて新しい

信仰告白が必要だったのか、という問いへの回答にはなってないよう に思えます。

[39]  松谷、『ウ エストミンスター神学者会議と信仰基準』  19頁

[40]  松谷、『ウ エストミンスター神学者会議の成立』 426−434頁

   なお、特命委員のウエストミンスター神学者会議への影響については、ピッツバーグの改革長老

神学校のウェイン・スピア教授が、彼らの教会政治論への貢献を博士 論文にしています。

[41]  現在、北米改 革長老教会(RPCNA)は最初の3文書を採用しています。 もっとも、

『信仰告白』には『改革長老証言』が添えられて、現代的な解釈・適 用を試みています。

   これは、後年『信仰告白』の本文に修正を加えたアメリカの長老教会とは異なるアプローチです。

[42]  ブラウン、『ス コットランドにおける教会と国家』  119頁

[43]  上掲書   119頁  [下線は筆者]  これはトマス・ブラウンの注目点でもあります。

さて、私は この『ウエストミンスター信仰告白』の箇所ほど簡潔明 瞭に Ius Divinum の精髄に

触れる表現を知りません。 たしかに、この箇所だけを読むのなら、 厳密な意味での長老主義に

それを限定することは難しいかもしれません。 つまり、この箇所だ けを採り上げるならば、

会衆主義者も「アーメン!」と言うことでしょう。が、この信仰告白 を生み出したブリテン島の

歴史的背景、とりわけスコットランドの教会史を勘案すれば、30章 1節で意味されているのは

まさに 教会の頭たる王キリストによる、役者(=教職者と長 老)を介した教会政治のことだと

言えるのではないでしょうか。 しかも、更にいえば、改革長老教会 の先駆者達が、名誉革命

(1688年)以降も、中会成立(1743年)まで、新生した“ス コットランド教会”という

形式的には長老主義をとる教会に加わることを潔しとせずに、”societies”(いわば 今で言う

“家の教会”)という暫定的・例外的な形態で礼拝を持った故時から も推察されるように、

カベナンターにとって最も大切な点は、単に「長老による教会政治」 という形式上のことでは

なく、「王キリストが教会(と国家)に君臨される!」ということ だったのです。 

[44]  本項以降にお ける歴史概観は Thomas Brown, Church and State in Scotland (1891) と 

Johannes G. Vos The Scottish Covenanters  (1940) とにその多くを依拠しています。ちなみに、

Vos Hetherington Johnstonら 19世紀に編纂された資料に多くを負っています。

[45]   The Engagement  の訳語

[46]   The Acts of Classes  の訳語 (松谷氏の訳。 増永氏の訳では <階級法>)

[47]  <厳粛 な同盟と契約>(1643年)の立場を固守しようとするカベナンターにとって、

   <約定派>は この三国同盟に対抗する脅威と感じられたわけです。 

(このように、対抗勢力を公職(官吏、軍人など、いわば国家公務員 の職)から追放することは、

今日、先進国で受け入れられている“政教分離”の考え、すなわち政 治に宗教が関わることを

禁ずる考えからは想像しにくいでしょう。 また、そもそも<厳 粛な同盟と契約>が 国家間の

条約であると同時に極めて宗教的な契約だったこと も、現代の国際関係からは推し量り難いところ

でしょう。 

当然起こりうる今日的な批判に対して、私は、<純粋な価値中 立>はあり得ないこと

とりあえず指摘しておきたいと思います。 換言すれば、“非・宗教 的”なるものは無いという

ことです。 例えば、「胎児は人間(生命)か?」、「胎児を中絶し てもいいのか?」という

問いに、中絶賛成派は、(かつては自分も胎児だった)母親の“人 権”を盾に、「いいえ。」

そして「はい。」と各々の問いに回答するでしょう。 が、この「い いえ。」そして「はい。」

には、明らかに 医学や生物学だけでは回答できない根源的な<価値 判断>が関わっていると

言えましょう。 “非・宗教的”であるべきと多くが信じている政 治や行政の分野においても、

生命の尊厳に関わる問題になればなるほど、倫理的な(あるいは宗教 的な!)<価値判断>が

絡んできます。) 

[48]  カベナンター が必ずしも反王政、反スチュアート朝ではなかったことを示します。 この点では、

   イングランドで共和制を樹立したクロムウェルたちのほうがラジカルだったと言えましょう。 

[49]  歴史は、彼の 誓約が偽りであったことを証明しています。 仮に、署名した際には真摯な気持ち

   であったとしても、その誓約を破ったことは明白です。  

[50]  クロムウェル が護国卿(“Lord Protector”)になるのは3年後の1653年。 

[51]  “Commonwealth” 成立は 1649年のチャールズ1世の処刑の後。

[52]  Public Resolution  の訳語 (松谷氏の訳。故増永氏の訳では<公的決定>)

[53]  松谷氏の訳

[54]  指導者には  サムエル・ラザフォード(ウエストミンスター会議での特命委員)もいました。 

[55]  <約定派>に クリスチャンが皆無だったとは言い切れないでしょう。 しかしながら、

ここで想起されるべきは、<厳粛な同盟と契約>の精 神です。 また、それが生み出した

<ウエストミンスター信仰告白>23章は、国家的為政者も 「神によって任職され」(1項)

「神の権威の下にある」(1項)のであって、「教会を[保護]する権威と義務が ある」(3項)

ことが(とりわけ、後年、米国の長老教会によって施された修 正が無い原文にはより鮮明に!)

述べられています。 つまり、国家的為政者も「神の栄光とイ エス・キリストの王国の拡大、

キリスト教の王国、共和国の平和と平穏のため」(<厳粛な同盟と契約>の結語部分より。

松谷訳)奉仕する者として理解されます。 カベナンター精神に忠実 であろうとする<抗議派>が

かかる国家・教会像を理想としていたことは想像に難くありません。  なぜならば、このような

イングランド軍の侵攻といった国家の軍事的危機において、信仰の内 容よりも 軍人としての能力を

重視する<決議派>の考えのほうが、よほど現実的であるし、“賢 い”選択だからです。  

[56]  Vos は <抗議派>が正しかった、とします。 なぜなら、<決議派>の多くが、1660年の

王政復古の後に、国王側に立って カベナンターを迫害したからだ、 というのが その理由の

一つです。(cf.  Vos, The Scottish Covenanters     69. )  

(たしかに、歴史には、真理において妥協した者が体制派となり、筋 を通そうとする者を糾弾

したり、迫害するというパターンが現われます。近代の教会史では、 日本占領下の朝鮮半島の

キリスト教会に神社参拝を強要する日本政府に協力した日本基督教団 の例がありました。

しかしながら、その他方で、<抗議派>の末裔である 北米改革長老 教会(RPCNA)が、今日、

米国政府(あるいは日本政府)に対峙する際のスタンスは、むしろ、 <決議派>のそれに近い

ものになっていることも謙虚に認めなければなりません。 現実的対 応が常に悪ではありません。

が、それを優先するあまりに、聖書的な真理を犠牲にする方向に動き 出してはいけません。

例をあげれば、現代のアメリカの保守的なクリスチャンは、概ね<共 和党>支持者です。中絶反対

など、良い政策を持っています。 が、その共和党も常にクリスチャ ン信仰に合致するとは限り

ません。 まず、当然ながら、同党を支持する非・クリスチャンの有 権者の声にも耳を傾けます。 

他方、日本のクリスチャンは、政策によっては任意の政党を、彼らの 思想が、無神論的な

マルクス主義 や 理神論的なフランス啓蒙思想を土台としていても 支持することもありま

しょう。が、それが、クリスチャン本来の世界観を麻痺させてしまっ てはいけないはずです。) 

[57]  北米改革長老 教会(RPCNA)は、 カベナンターの末裔としては、後者の「かたくなな」流れを

汲む教会だったといえます。 (1960年代以降、徐々に伝統的に  RPCNAの立場であった

諸原則が削られ始め、21世紀を迎えています。その最たるものは、 カベナンターの米国での

“契約更新”だった The Covenant of 1871 が RPCNAの教会憲法本文からは姿を消し、現在は、

単なる歴史上の一文書として“名誉”的な位置しか公式には与えられ ていないことです。)  

[58]  スコットラン ド教会(“Church of Scotland”)が、カベナンター (決議派)の大会 と カベナンター

(抗議派)の大会に分裂したわけです。 この時点で、改革長老教会 という名称の教会はまだ

設立されていません。 

また、今日のスコットランド教会は、1688年の名誉革命を契機に 復活したもので、たとえ

教会堂や教区をそのまま受け継いだとしても、第2宗教改革期のス コットランド教会の直接の末裔

とは - 少なくとも神学的には -  言い難いでしょう。

[59]  Vos, The Scottish Covenanters  71.

[60]    “…but sessions and presbyteries functioned.” (Wayne Spear, Class Syllabus [unpublished])  

[61]  Vos, The Scottish Covenanters  75.  

[62]  Ibid. [上掲書]   75.  

[63]  松谷訳『ス コットランドにおける教会と国家』(すぐ書房 1986年)では、<司教制>という

訳語が用いられていますが、同氏の『ウェストミンスター神学 者会議の成立』(一麦出版社 

1992年)での訳語<主教制>を採りました。

[64]  松谷氏の訳語

[65]  Act of Supremacy  の訳語

[66]  Act Rescissory の訳語

[67]   Wayne Spear, Class Syllabus [unpublished] 

[68]   Vos, The Scottish Covenanters  79.

   しかも、Vos は John Johnstonを引用しつつ、「廃棄令 が1592年の<黄金法>までも

   失効させた」(同書80頁)と述べています。  

[69]  Abjuration Acts の訳語(遠藤による試訳) 

[70]  ブラウン、『ス コットランドにおける教会と国家』  132頁 

[71]  上掲書  133頁 

[72]  上掲書  133頁 

[73]      Vos, The Scottish Covenanters   85-86.

[74]  今日の中国大 陸における“家の教会”を彷彿させます。  

[75]  1684年に枢密院が<弁明の宣言>に対抗して発布し た法令は The Bloody Actsですが、

   混同を避けるためもあって、こちらについては、松谷氏の用いられた「血まみれ法令」と

   いう訳語を採用することにします。(ブラウン、『スコットランドにおける教会と国家』

  149 頁を参照のこと。) 

[76]   Wayne Spear, Class Syllabus [unpublished] 

[77]  第一回から第 三回まではチャールズ2世、第四回はジェームズ7世による。 

[78]  ブラウン、『ス コットランドにおける教会と国家』  137、140頁 

[79]  上掲書  145頁

[80]   Wayne Spear, Class Syllabus [unpublished] 

[81]  The Apologetical Declaration and Admonitory Vindication against Intelligencers and Informers

訳語 (松谷氏の訳) 

[82]  彼のオランダ 滞在中に、牧師・神学者として知られる Wilhelmus á Brakel とも交流(少なく

とも文通を通じての)があったことが偲ばれます。 

 cf.    W. H. Carslaw, Life And Letters Of James Renwick (Edinburgh: Oliphant Anderson &

         Ferrier  1893)   

[83]  ブラウン、『ス コットランドにおける教会と国家』  148、149頁 

[84]  上掲書  149頁 

[85]   Vos, The Scottish Covenanters    122.

[86]  ブラウン、『ス コットランドにおける教会と国家』  152頁 

[87]  イングランド 王としては ジェームズ2世 

[88]  上掲書   152頁

   ブラウンは 第四信仰自由令の発布を1687年としています。 なお、Vos

“May 15th, 1688” との理解    cf.  Vos, The Scottish Covenanters    100.  

[89]  上掲書   152頁 

[90]  オレンジ公 ウィリアムは、チャールズ1世の娘の息子。 夫人のメアリは、ジェームズ2世

の娘。 よって、夫妻双方がスチュアート朝の血統をひいていまし た。 

[91]  The Revolution Settlement  の訳語

   <名誉革命体制>については、本論の考察範囲とする1743年の<改革中会設立>当時

までも、その影響は及んでいたと言えましょう。 とはいえ、その基 礎は「1688年〜

1690年」に固まったと考えても、的外れではないと思料します。  

[92]   Vos, The Scottish Covenanters    138.

[93]      The Convention :  [英史](1660年と1688年に国王の招集なく開催した)議会

     cf.  『リーダーズ英和辞典』研究社  471頁 

[94]   Vos, The Scottish Covenanters    138.

[95]  主要なものと しては、1690年7月の  “Act Ratifying the Confession of Faith and Settling

        Presbyterian Church Government”  

[96]   Vos, The Scottish Covenanters     140-141.

   ブラウン、『スコットランドにおける教会と国家』  163頁 

[97]  “The Patronage” を巡って、離脱(1733 年)と 大分裂(1843年)という 国教会

  からの分離が起きていることは  スコットランド史の理解の上では重要です。 

             cf.   Nigel Cameron, et al (ed.),  Dictionary Of Scottish Church History & Theology

                                                            (Downers Grove, IL: InterVarsity Press 1993)    649-650.

[98]  ブラウン、『ス コットランドにおける教会と国家』  165頁 [下線付加] 

[99]  上掲書   165頁 

[100]  スコットラン ド教会の大会が、1647年8月27日に、ウエストミンスター信仰告白を

批准した際の決議文で、この点に言及しています。

“It is further declared, That the Assembly understandeth some parts of the second article

of the thirty-one chapter only of kirks not settled, or constituted in point of government…”

                    cf.  Westminster Confession Of Faith  (Glasgow: Free Presbyterian Publications  1994)  15-17.  

[101]  ブラウン、『ス コットランドにおける教会と国家』  165頁 

   (18世紀に、アメリカの長老教会は、信仰告白の同項に関して、修正を加えています。) 

[102]   スコットランド自由教会の牧師でもあったトマス・ブラウンは、これ を“欠陥”として

とらえています。 (上掲書 165頁を参照) たしかに、基本的 に、指摘のとおり

だと思います。 その一方で、今日の我々の31章2節の理解に“欠 陥”がないかどうかを

吟味することは有益と思われます。

(と言いますのも、18世紀後半に アメリカの長老教会で採択した 信仰告白23章や

31章の<為政者(“the civil magistrates”, “the magistrates”)>に関する修正文が、長老教会に

広く受け入れられている現状が存在しています。ちなみに、これは、 そもそも、国教会を

持たず、共和制を採用するアメリカ合衆国の状況に信仰告白を“文脈 化”したものです。

興味深いことに、同信仰告白を採用する外国  -例えば日本 -の長老主義教会でも、この

アメリカ修正版が踏襲されています。 

さて、問題はといえば、この“アメリカ修正版”で、どれだけ ウェ ストミンスター信仰

告白の持つ本来の“息づかい”が聞こえてくるかです。 換言すれ ば、<厳粛な同盟と契約>

という歴史的・神学的な枠組みが、見えてくるかです。 

また、この問題を、改革長老教会の立場から考えた場合、仲保 者キリスト王権を教会と国家

[為政者]の双方の上に認め終末に向けては、既に君臨されておられる王キリストの勝利 を

確信するという神学的気風を鑑みますと、31章2項を 単に“政教分離原則からの逸脱 だ、

とか エラストス主義だ、として今日的視点のみから批判すること は、一方的すぎるように

思われます。 言い換えれば、<全世界の王キリストに仕え、 キリストの教会を大事にし

神の王国の前進に努める為政者>を祈り求めることが聖書的だと確信 しているか否か、を

自問することにも繋がっています。 神学と実践での深化が、私たち の教会に必要です。)

cf.  松谷、『ウエストミ ンスター神学者会議の成立』 193−196頁)  

[103]  Vos, The Scottish Covenanters     141.  

[104]  ブラウン著『ス コットランドにおける教会と国家』には、名誉革命後の“新生”スコットランド

教会に、カベナンター(とりわけ、キャメロンの流れを汲む者たち) の多くが加入しなかった

ことや、1743年に設立された<改革中会>への言及が見当たりま せん。

むしろ、それとは対照的に、追放された牧師たちが、1690年に、 “新生”スコットランド

教会(国民教会)に加入することを許されたくだりを、ブラウンは感 動的に述べています。

(同書 160−161頁)  

[105]  ブラウン、『ス コットランドにおける教会と国家』 177頁

[106]  上掲書  180頁 [訳注は松谷氏のもの]

[107]  上掲書  180頁 [下線、訳注は遠藤] 

    1843年に、著者のブラウンが属するスコットランド自由教 会(“Free Church of Scotland”)が、

国教会から離脱(”The Great Disruption”)す る際の背景にも、牧師推薦権を巡る議論がありました。 

[108]  上掲書  180−181頁 

[109]  詩篇歌による 神賛美はもちろんでしょうが、教会として<契約する>(“covenanting”)ことは、

シセーダーも尊重したようです。

         cf.  Adam Loughridge,  The Covenanters in Ireland (Belfast: Cameron Press  1984)  117-118.

[110]    Wayne Spear, Class Syllabus [unpublished] 

    翻って、カベナンターは、教会だけではなく国家政府(為政者)も、 王キリストの僕として

        <契約>(根幹的には  “恵みの契約”ですが、具体的には、<国民契約>と<厳粛な同盟と

        契約>)によって、キリス トへの従順を誓うべき、という考えでした。 注29で言及した

        ブルー・バナー「キリスト の冠と契約のために」は、その精神を表現したものです。 

[111]  北米における <シセーダー>の末裔として、現存する教派は米国南部(とりわけ、ノース・キャロ

ライナ州とサウス・キャロライナ州)に点在する Associate Reformed Presbyterian Churchです。

ちなみに、同教会立の大学の名前は(その名も!)アースキン・カ レッジといいます。

その他の シセーダー系の教派は、本文にあるように、RPCNAに吸収さ れた Associate

Presbyterian Synod の例のほかは、現在は 米 国最大の長老教会である<アメリカ合衆国長老教会

(PCUSA)>の中に吸収されている United Presbyterian Church (1858-1958)の流れがあります。 

[112]   この合併の直接の要因は、<連合長老大会>の教勢の減少にありまし たが、そもそも 原理を

   異とする<カベナンター >と<シセーダー>の合併が可能となった背景には、米国文化・社会 への

同化に伴う 米国のカベナンターの“アイデンティティー”への拘り が緩くなったことが考えられ

ます。   cf.   S・ボイル、『カベナンター400年の戦い  (1973年 講演録)(東須磨教会 1993年)

[113]  ウェストミン スター信仰告白22章5、6節 (“vow”に関して)を参照のこと 

[114]   Vos, The Scottish Covenanters     153-158.  

[115]   Ibid.      164.

            cf. Reformed Presbyterian Church [in Scotland],  The Auchinsaugh Covenant   (Belfast: 1835)  

[116]  カベナンター は、スコットランド王国においては、キリストに忠誠を誓う<教会>と<国王>

(=国家的為政者)の双方がそれぞれの領域で神の民を治めること、 とりわけ、教会では

(エラストス主義のように国王ではなく!)長老達の教会会議によっ て治める国教会を理想と

していました。 したがって、国教会という教会形態そのものに反対 していたわけではあり

ません。 

[117]  The Reformed Presbytery の訳語 

     “ [The adjective] ‘Reformed’ does not mean the Reformed theology; but rather  [‘re-established’]…”

            (Dr. William J. Edgar) という意味で、第2宗教改革期のスコットランド教会の再建が 意識されて

          いると考えられます。

[118]  Vos, The Scottish Covenanters     159-169.

     カベナンターは (イングランド国教会のように、国王ではなく!)長 老達の教会会議によって

治めるスコットランドの国教会を理想としていたわけですから、(私たちの今日的感覚で言う

ような「教団」、「教派」といった)独立した非・国教会を 設立する決断に至るには、相当の

躊躇があったものと察します。 

[119]  事実上、一教 派としての道を選択したとはいえ、これは必ずしも、スコットランドのカベナンター

   たちが、第2宗教改革期に達成したところの 神に契約した教会と国家の姿を諦めたわけでもあり

ません。 しかも、彼らは、そのような国教会(教派教会ではな く!)を理想としていました。

   その点で、彼らが、あえて General Assembly を形 成しなかったことも、注目に値し ます。 

とまれ、カベナンターの歴史はここで終わりません。 <恵みの契 約>に忠実であられる主なる神

        エホバ(“the LORD”;神の契約名) は、主を敬う教会を祝福なさるお方です。 そして、21世紀を

迎えた今日も、神の主権的支配の下、歴史のなかで、全世界におい て、神の王国は前進している

のです。  

[120]  一教派である ことは、米国や日本の現実から見れば、違和感がないでしょう。 むしろ、

国教会のほうが よほど奇異に映ります。 そこで、「カベナンター も時代の子であった。」と

陳腐な表現で言い切ってしまうことは簡単です。 が、教会と為政者 が(神から委任された

各々の領域で)同じ一人の王キリストに仕えるような国の実現を、こ の世(すなわち、スコット

ランド)で目指したのが、彼らだったということが まず覚えられる べきでしょう。 

翻って、私たちは、ややもすれば 終末に向けて生きることを、どこ か“彼岸に”(仏教的な

表現が不適切ならば、“キリスト再臨の彼方に”)に押しやったり、 「信仰とは心の持ちかたの

こと」と、霊肉二元論やグノーシス主義に陥ってしまうのではないで しょうか。 

[121]  Ius Divinum (“The Divine Right”) と切り 離して考えることのできない教理が、<仲保者キリスト王権>

(“The Mediatorial Kingship of Christ”) です。この教理は、後年、スコットランドのWilliam Symington や 

北米のAlexander McLeod らによって発展したと考 えられますが、萌芽は、Martin Bucerなどに

求められる、というのが筆者(遠藤)の暫定的所見です。 

[122]  Wayne Spear, Class Syllabus [unpublished] 

[123]  Wayne Spear, Class Syllabus [unpublished]

    David Carson,  Transplanted To America  (Pittsburgh: Crown and Covenant  [undated])

[124]  アメリカの長 老教会の“家系図”を見ると、たいてい、2つの線がひかれています。 ひとつは

現在の<アメリカ合衆国長老教会(PCUSA)>に 流れつく、所謂メイン・ストリーム(主流派)の

長老教会で、今日、保守的な長老教会を代表する <正統長老教会(OPC)>や<ア メリカ長老教会(PCA)

でさえも、各々歴史的には米国北部と米国南部を基盤としつつも、双 方共に主流派の流れに

たどり着くことができます。 もう一つが、カベナン ター /シセーダー  の流れを汲む教会群で、

たいてい前者は Reformed Presbyterian を、後者は  Associate Reformed Presbyterian の名を冠します。

興味深いことは、後者の双方が、 (a) 人種的に は スコッチ=アイリッシュの背景を持ち、

(b) 人口分布では、ペンシルベニア州、カンザ ス州などに多く、(c) 詩篇歌による賛美をささげる

現在ではRPCNAのみ  などの共通項があります。 

さて、本文にある、Associate Reformed Churchは、その後、もう一つのシセーダー系の教会と

合併して “United Presbyterian Church”(1858-1958)と なりますが、それもまたメイン・ストリームの

教会にのみこまれて、現在は <アメリカ合衆国長老教会(PCUSA)>へ と吸収されています。 

[125]  分裂の直接の原因は “political dissent” を巡るもの。 

[126]  後者は RPCNA(General Synod)と名乗ります。 これが、後 のRPC(Evangelical Synod)やカベナント・

神学校を生みだす流れですが、現在は そのRPC(Evangelical Synod)も カベナント神学校も

<アメリカ長老教会(PCA)>に吸収されています。言い換えれば、現在のPCA にはダブ ニー、

ソーンウェル、ジラルドーに代表される南長老教会の伝統と同時に、 わずかながらカベナンター

伝統も流れ込んでいることになります。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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                                                (Reformed Presbyterian Synod [in Ireland]  1990) 

 

Ryken, Philip G.             ”Scottish Reformed Scholaticism” in Carl Truman & R. S. Clark (ed.)

                                         in  Protestant Scholasticism: Essays in Reassessment  (Carlisle, Cumbria:

                               Paternoster Press  1999)

 

Scott, David                      Distinctive Principles of  The Reformed Presbyterian Church

                                                (Albany, NY: 1841)  

 

Spear, Wayne Renwick     Covenanted Uniformity In Religion:  The Influence Of The Scottish

                                           Commissioners Upon The Ecclesiology of The Westminster

                                           Assembly  (Unpublished Ph.D. dissertation, University of Pittsburgh

in collaboration with Pittsburgh Theological Seminary, 1976

[ Supervisor: Dr. Robert Paul ] )

 

___________________.  “The Westminster Assembly’s Directory For Church Government”

                                           in Charles Dennison & Richard Gamble (ed.) Pressing Toward

                                           The Mark  (Philadelphia, PA: The Committee for the Historians of

                                           The Orthodox Presbyterian Church   1986)  

 

___________________.    Class Syllabus for CH32 [unpublished]

                                                 (Pittsburgh, PA: Reformed Presbyterian Theological Seminary  2001)  

 

Stevenson, David              Scottish Covenanters and Irish Confederates:

                                           Scottish-Irish Relations in the mid-seventeenth Century

                                                 (Belfast: Ulster Historical Foundation  1981) 

 

 

Symington, William         Messiah The Prince  (Pittsburgh: The Christian Statesman Press  1999

                                                 [reprint: original American edition in 1884])

 

Wells, David  (ed.)            Reformed Theology In America

                                                 (Grand Rapids: Baker  1997)  

 

Willson, James Renwick   History of The Reformed Presbyterian Church

                                                ([location and date n/a: Reformed Presbyterian Theological Seminary’s

Library Code “BX 8991 .W74Y  v.2] )

 

Wylie, James                      Story of The Covenant And The Services Of The Covenanter

                                               (Edinburgh: Blue Banner 1998[reprint: originally in 1880])

 

Vos, Johannes G.             The Scottish Covenanters  (Edinburgh: Blue Banner Productions 

1998[reprint: originally in 1940])

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

邦文 参考資料

 

 

坂井純人     「改革派契約神学の発展とその史的検証の試み」

『改革派神学』第28号(神戸改革派神学校、2001年)

 

        瀧浦滋                    『日本宣教と天皇制』  (いのちのことば社、2001年)

 

ブラウン、トマス 『スコットランドにおける教会と国家』(松谷好 明 訳、すぐ書房、1986年)

 

ボイル、サムエル 『カベナンター400年の戦い  (1973年講演録)

(日本キリスト改革長老教会  東須磨教会、 1993年)

 

増永敏雄     『スコットランド・カベナンターの歴史』

『つのぶえ』No. 244-248(つのぶえ社、1970 年)

 

松谷好明     『ウエストミンスター神学者会議と信仰基準(春 日井教会信徒神学講座)』

                                                                                      (日本基督改革派   春日井教会、1998年)

 

松谷好明     『ウエストミンスター神学者会議の成立』(一麦 出版社、1992年)

 

松谷好明      図表『スコットランド長老主義の系譜(1)、 (2)』

[未刊行資料] 1998年)

 

   『リーダーズ英和辞典』(松田徳一郎 監修、研究社、 1984年)