宣 教 と 日 本 の 国 家 権 力
 −−旧満州における日本の宗教政策−−

序1)教会は神の言葉に立ち聖霊に導かれる。しかし、また歴史的な存在でもある。
   今日のプロテスタント教会は、福音主義(敬虔主義)的流れによって、
   それぞれの歴史的位置が曖昧化している。教会としての信仰的ル−ツ、世界の
   教会史における長老教会位置と使命を覚えよう。
   長老教会は、16〜17世紀のスコットランド宗教改革と国民契約のための
   証しの戦いから生まれてきた。そして、スコットランドからアイルランドへ、
   そして、アメリカへ移住した。例えば、最初のアメリカでの改革長老教会は、
   1721年に設立された。
   長老教会はイングランド・ピュ−リタンに発する群れも
   (旧日基はPCUSAまたはPCUS系列と連携。RP系のUPCが1958年
   にPCUSAと合同するまで、RPC系とPC系はほぼ区別されていた。改革派
   は保守的ではあっても、Dutch系(CRC)とPC系(OPC/PCUS)
   の流れの教派である点で、RP系のわれわれと長老教会としての考え方、特質が
   違って当然。RPESはPC系のPCAとの近年の合同 でPCAとなったが、
      長老教会の基礎的形成はその以前であって、改革長老教会との共通性であるRP
      系の特質と使命が長老教会にとってもIdentity理解に不可欠と思う。
    その積極的意義:スコットランド長老主義の証しの日本国家に対する重要性
           キリストの冠と契約のために−社会の回心をもめざして
           キリスト王権のもとの信仰の自由の実践的社会的証を伴う信仰
   その受動的意義:日本の改革主義の聖書信仰の危機。福音主義の課題の克服。
   このJ.G.Vosの論文は遺憾なくわれわれの共通の教派ル−ツを示す。
   それは歴史の交錯点に立った信仰の先達として、日本の我々の戦いの位置を示す。
   この遺産を無視して歩むこともできるが、単なる福音主義/敬虔主義でよいのか?
 2)信仰の自由の戦いの基礎:聖書の無謬性の信仰にたち、聖書の一言一言に導かれて、
   惠の契約への応答の証しとしての生活と社会を目指すことができる福音的倫理体系。
   a信仰者の導く社会の基礎としての神の律法(十戒)とその適用:旧約の社会律法
   b小教理の示す福音的生活と行動の原理と、契約的応答を生む契約共同体の自由。
   c信仰の自由とキリストの王権の長老主義による保証:長老主義の検証・その使命
    (信仰生活ハンドブック ch21 拙稿政治社会問題参照 いのちのことば社)
 3)Johannes G.Vosについて(1903−1983)
   aGeerhardus Vosの息子・editor
   bCatharine Vosの聖書物語で育った実例
   c戦前の中国東北部で神学校を運営、日本の宗教政策による閉鎖を経験。帰国後、
    1943年のウエストミンスタ−神学雑誌(WTJ)に、本日紹介する論文を
    掲載。今も変わらない日本の宗教政策が、55年前にみごとに描き出されている。
   dジェネバ大学(米国ピッツバ−グ近郊)聖書学教授。長年にわたり、Blue
    Banner Faith and Life 誌を編集発行。

1.宣教との関係での「信仰の自由」の概念
 1)キリスト教宣教と為政者の関係の深刻な問題は、日本の支配占領下で激しい。
 a.東洋における為政者の絶対権力の傾向:為政者の限定的機能の認識の困難性。
 b.−−これは、神の(キリストの)王権を認めないで、神を無限に相対化するとき、
     地上の何かを絶対化せずにおれないのが人間なのであり、必然である。
     逆にキリストの王権を認めると、地上の一切が逆に適切に相対化されてくる。
 c.「信仰の自由」のことばが憲法にあっても、実態は真意からほど遠いものである。
 2)宗教的自由と宗教的寛容の混同が、誤りであることが正確に理解されねばならない。
 a.宗教的自由とは天与の人権であり、為政者は認識し擁護せねばならぬ義務がある。
   この自由は親の子供を養育する権利同様、為政者から発するものでは決してない。
 b.宗教的寛容とは、宗教の領域においても為政者が至高であるとの考えに立つもので
   為政者が、国民に内在する人権としてではなく、信仰を、為政者が自分の裁量で付
   与したもので、権威主義的また恣意的に左右できる特権と考えるとき生まれるもの
   である。この様なものも「信仰の自由」と称され、同時に、国家によって「付与」
   されるものとされ、そして当然そこにある本質的矛盾が気付かれていない。
 c.あやまちの種は、為政者の宗教的領域での優越主張にあり、必ず苦い実に至る。
 3)まことの「宗教的自由」は次の三点をもつものである。
 a.(1)思想と信仰の自由
   (2)改宗宣伝を含む信仰の告白と実践の自由
   (3)宗教的領域のみならず生活の全領域で、信仰と首尾一貫せぬ行動を絶つ自由
      当然、何が信仰と首尾一貫しない行動かは、為政者でなく信仰者自身の判断
      による。為政者は、ただ、他の市民の権利が現実に侵される場合、または、
      市民社会の安全が真実に脅かされる場合だけ、合法的に個人の良心の自由に
      対抗できる。
 b.たとえ憲法が「宗教的自由」を謳っていても、これらのいずれかが欠けているなら、
   「宗教的自由」は存在していない。
 c.公務員は一律に憲法の正しい実践を避けており、憲法の謳う権利を得るための法的
   手段が存在しないであろうから。また、さらに、国家がナショナリズムを超宗教と
   して立てて市民に献身を強要し、神を国家の上に立つ方として信じる市民的自由を
   実質的に欺くことで、すべての「宗教的自由」の保証を無効にしている場合もある。
 4)「宗教的自由」との関係で世界の国々は三種類に分類される。
   (1)真の宗教的自由が存在する国。真の法的保証。宣教と為政者の摩擦はない。
   (2)宗教的自由はもちろん宗教的寛容も存在しない国。ここにも摩擦はありえぬ。
   (3)宗教的自由が大なり小なり宗教的寛容とみなされている国
   ある宗教的団体が国家によって権威主義的に許容され、為政者の意向に左右される
   場合で、為政者は完全な宗教の自由を主張するが、自らの聖書的権威限定を否定。
   この第三分類の国々に偉大な宣教地である国々が含まれている。そしてその国々に
   宣教上の最も困難な問題が生じている。「宗教的自由」は緊急の宣教的問題である。
   これは単なる誤解などでなく、国家の宗教的領域における調和不可能な概念との衝
   突の不可避の結果である。(ここでヨハネス・ボスは石原謙論文を引用する。)
   教会は国家の付属物となるのか、信仰と良心のゆえに平和と安全と危機に晒すのか?
   国家に従属するのか、キリストのそしりを背負って門の外に行くのか!

2.国家によって侵害されるキリスト者の自由
 1)宗教的寛容の概念は、官吏による制限を論理的に帰結する。
   その制限は、三つのおもな線に沿って行使されている。
   (1)クリスチャンの教育上の権利の否定
   (2)市民的忠誠の保証としての(偶像)崇拝儀礼への参加の強要
   (3)キリスト教宣教団体と教会が為政者の支配を受けるようにという要求
 (半世紀を経ても日本においてキリスト者が常に自覚的に警戒すべき諸点でないか!)
 2)第一の点について。
   教育を国家の独占的権利だと主張する。真のキリスト教学校が存立し得ない。
   契約の子らは、無学となるか、強度に反キリスト教的教育にさらされるかしかない。
   天皇礼拝・国家の神格化・人道主義的倫理に充満した教育。教会はてをこまねく。
 3)第二の点について。
   市民的忠誠を装って、神のことについても人への服従に良心を縛る落とし穴。
   市民的忠誠と良心的偶像礼拝拒否とのジレンマ。国家はこれが信仰の自由の侵害だ
   とは決して認められない。全体主義国家概念では宗教とは形式的礼拝、敬虔な感情
   および神秘的経験に限定され兼ねないからだ。そのような国家は、生活の全面にわ
   たる支配原理としてのキリスト教的宗教観を決して許容することはできない
   国家神道は宗教ではないし宗教を超越したものとの主張は困難を増すのみ。我々は
   超宗教を認めない。絶対的最後的排他的でなければ真理でなくキリスト教でない。
   異教的天皇崇拝国家における愛国主義は英米の愛国主義とはまったく別物である。
   単に王を王として尊ぶことができず、王に神的栄誉を与えずに尊ぶことができない
   とすれば、たとえその神性が低次であっても、第二戒はその王への儀礼を禁ずる。
   たとえ儀礼自体が非宗教的であったとしても、強制することは反対すべき。
   宗教団体に市民的忠誠の誓約を要求することは、誓約がそれ自身宗教的に中立であ
   ったとしても、団体の性格、とくに宗教的性格を侵害する。政府が教会に国民精神
   の養成を要求するとき、教会は政治の一手段とみなされ、神にでなく国家に仕えて
   いる。国家にはその様に宗教的団体を統制する権限はない。神のことへの国家の侵
   入は、教会にあるキリストの王権の侵害である。
 4)第三点について。
   1940年4月1日発効した宗教団体法は、国家にエラスタス的統制を許している。
   ここに「寛容」の論理の帰結がある。宗教団体は国家によって保護されるだけでな
   く、監督されるものとされ、その規則も当該大臣によって施行されねばならない。
   教会は国家の侵入を許すだけでなく、国家の侵入に同意することが要求される。
   教会は国家の許可次第となる。ホッジの言うように、国家は良心・宗教・道徳につ
   いては、管轄権を有しないのだが、たしかに市民的側面では合法的権威をもってお
   り、教会も服従する。しかし今教会は政治体制に適合しなければ存在が許されない。
3.国家の要求に対する宣教団と教会の反応
 1)では教会と宣教師の対応はどうか。大多数は何ら疑をはさまず同意することに賛成
   している。「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。」「あなたがたは、
   すべて人の立てた制度に、主のゆえに従いなさい。」(ロマ13:1,1ペテロ2』
   13)などの聖句が皮相的解釈によって、このような同意を支持するものとされて
   いる。これらは市民としてのキリスト者個人に語りかけているのに、教会が単なる
   「個人の集まり」とされた結果、この義務が集団の義務に適応されている。そこで
   はキリストのからだとしての教会概念は無視され、その頭である地位をキリストか
   ら国家が奪うことが黙認されている。教会とその枝への「人に従うより神に従うべ
   きだ」との命令が、顧みられない。
 2)福音宣教を積極的に禁止するならば、その時こそ戦うべきだが、単に認可統制しよ
   うということは、むしろ教会が公認されるのであり、為政者に教会の自由に干渉す
   る意向はないというものが多い。これは希望的観測にすぎない。またこれは原理的
   なゆるすことのできない譲歩であり、キリストに帰すべき主権を彼から奪う。
 3)そのような同意への五つの反論。
   (1)宣教維持の目的のためには手段を選ばない。この不健全な倫理に立つ。
   (2)メッセ−ジと宣教の任務が狭い。個人の罪の救いさえ言えればよいとする。
   (3)最高善が人の救い、人の福祉、つまり非有神論的となり、神の栄光でない。
   (4)世界における神の力への不信仰から発している。天が落ちるともわれらは
      義を行うべきである。邪悪とだきょうして宣教の門戸を維持するのが義務か?
      わたしたちの主は王座に座す。教会の継続は、工作でなく聖定に依存せよ。
   (5)実用主義的にすら、全体主義国家に対して彼等の政策は結局無意味である。
      教会に隠遁的傾向が増し、時代に対して強力に証するかわりに、個人的
      宗教経験だけ強調し、倫理的社会的責任は軽視する。そして結局、東洋的
      宗教観に飲みこまれる。キリスト教の単なるこっけいな改作にすぎない。
     キリスト教が政治的社会的経済的教育的問題に対して思考停止してしまう。
      しかもまじめであるが、個人主義的意味以外ではキリスト者の生活と環境を
      考え得ない。その結果教会は彼らを取り巻く異教世界に殆ど影響を与えない
      会員で構成されることになる。キリスト者生活の流れを個人の霊的経験とい
      った内的地域にせきとめる試みは不健全で、結局悪だけ生み出す。

4.これらの要求に対する聖書的立場での対応:同意への拒否
 1)国家による信仰の自由の侵害に対し、あわせていく態度は根本的に不健全だ。
   悪を破壊するのが聖書の倫理である。悪に同意することを果敢に拒否するものたれ。
   そのような「同意」は原理問題の妥協である。信仰によって歩むのが我々である。
   教会は悪との妥協を拒否したときに、すべての悪に打ち勝つ神の力を証しするもの
   とされた。
   Nec Tamen Consumebatur!(スコットランド教会の標語)
 2)みことばは教会の存続を保証するが、それは、可視性を再重要とはしない。
   より少なく見える形態に退くことで、神の国が進展することがある。時にはただ
   荒れ野や山々、洞穴においてのみ、正しく神の集いがなされるときがある。
   国家の監視と許可のもとでの集会はむしろ拒否する選択がある。主の時を待ち、
   抗議しつつ神に求めつつ、引き下がって働くときがある。しかしそれは、信仰の自
   由の侵害への抗議であることが明白でなければならない。
 3)西洋なら抵抗できるが、東洋では同意せざるを得ないというか。でも、信仰の自由
   は血を流す抵抗なしに西洋でも勝ち取れなかった。どこででも、絶えず監視を続け
   必要なら英雄的犠牲を捧げないと永くは持続できないものだ。
   東洋のアンドリュ−・メルヴィルを!「王よ、スコットランドには二人の王、二つ
   の王国がございます。..彼の王国においてあなたは王でなく、主でなく、かしら
   でなく、肢で有ります。」キリストの地位栄誉はだれにもゆずることはできない。 
結語 靖国・公式参拝・大嘗祭・国旗国家などの問題を経ても、日本の本質は驚くほど
   この半世紀前と変わっていない。信徒一人一人の証しの戦いと苦悩とは日本の教会
   の克服すべき構造的問題と直結している。それは結局キリストの王権の確立に帰す
   る。
   たとえば、教会が戦争論を聖書から語ろうとするときはどうか。
   通常は、戦争についての倫理的判断を取り上げるとき、人間の罪性と社会性を踏ま
   え、キリストの王権のもとでの教会と国家の権威とその意味に触れ、その上で、第
   六戒の意味を聖書全体から細かく解釈して、それを戦争にあてはめ、キリストの権
   威と関連するものとして国家の権威を捕らえ、そして、剣の権威を見つめ、それへ
   の教会の権威による自由で独自な態度をあきらかにしたうえで、教会が具体的状況
   に当てはめるときの抑制と限定の原理を示し、最後に日本の社会的政治的状況での
   戦争に対する教会の態度のとりかたを示唆するというようなことになるだろう。
   とくに私たちのようなウエストミンスタ−信仰告白による教派は、17世紀の告白
   の真意を再現してそれを積極的に評価しつつ現在に当てはめる過程もいる。
   日本長老教会の近年の努力に対し感謝をし敬意を表したい。
   私は次の諸点を特に重視する。
   1)教会はOPCのごとく、聖書の明言がないとアディアフォラとして教会として
     何も語れなくなるといった傾向を整理して、自由に判断し、主にある集団とし
     ての契約的応答を、みことばの原則にたつなら自由に判断し、証しとして
     発言と行動をなしうる基盤を固めるべきである。
     この教会を自己呪縛が、「義戦」の論議でも教会の自由を奪い、結局戦争放任
     かさもなくば無政府的平和主義かのような乱暴な論議しかできなくさせている。
   2)ナショナリズムのもとでの戦争装置と、全体主義のもとでの戦争装置と、自由
     が真に保証された国家のもとでの戦争装置の違いをはっきり認識し、日本の場
     合、特に、ヨハネス・ボスのいうような国家である限りは、反戦でなければな
     らないことを、論点の中心に据えるべきだ。
   3)ウエストミンスタ−信仰告白は防衛と治安権を、当時の事情を考えると極めて
     慎重かつ控え目に認めているというべきだ。侵略は少なくともいわれていない。
     この考え方を我々に慎重に当てはめるべきであって、我々の教会は極めて広範
     な状況判断の自由と可能性と責任とを委ねられているといえる。
   今後もこの点で、昨今の揺れ動く政府の防衛論議にも鑑み、教会としてより明確な
   音色を立てるために両教会で協力したい。しかしこの点でも、やはりヨハネス・ボ
   スの言うこの国家の体質・信仰の自由への態度が、聖書的解釈を踏まえた後にわれ
   われの論点を決定する軸となるべき現実であると思う。