この日の丸君が代の法制化をめぐる問題は、実は、「良心」か
「天皇」か、どちらを日本の国家の思想基軸とするかの問題です。 

日の丸君が代法案は、政府がどう言いぬけようとしても、「天皇」を、
国家の思想基軸として確立しようというくわだてです。この点では、
天皇が「象徴」であるか否かは論点ではありません。
象徴として、 天皇は国民統合のしるしだというのですから、まさに、
天皇を国家の思想基軸とすることには、少しのブレーキもかかって
いません。この点で、明治の半ばに伊藤博文が帝国議会での演説で
えがいた、天皇を日本の思想基軸とする体制の青写真は、あの敗戦
の破綻を経ても、少しも変わっていないのです。
もう一つの国家基軸である「自由と人権と平和」を憲法によって片手に
握るようになっても、もう一つの国家基軸を放せていないのです。
日本国民は、戦後ずっとこの点で曖昧な立場を保ってきました。しかし、
いまこの法案をつきつけられて、「天皇の国」を賛美する体制をとるか、
そうでないかを迫られています。
わたしたちは、もはや曖昧な態度でいることはできなくなったのであり、
天皇ではなく国民の良心(その自由と人権)が日本国家の思想基軸だ
ということを明確にしなければなりません。
(現憲法の主要な柱のこの思想基軸を強化し実践すべきです。)

私たちは必ずしも即座に天皇制が廃絶できると考えるものではありません
が、「天皇の国」を国家基軸とする考えと天皇がどうしても不可分だという
ことになり、「国民の良心」を国家基軸とすることができないことが明らか
になるにつれて、体制の民主的平和的変革が必要となるでしょう。

キリスト者の言葉で言うならば、これは「キリスト」か「天皇」か、どちらを
第一とする国家を目指すかの問題です。
一切の王としてすべおさめたもうキリスト(詩篇2篇、96−99篇、マタイ
28:19、エペソ1:19−22、黙示録11:15−18、15:3−4、
19:15−16)が、国王にも政府にも勝って、まず恐れられる日本、キリスト
のみことば(みこころ)に従う「良心」と、信仰の「自由」による正義が満ちる
日本、このような聖書の教える意味での、国民の「良心と自由」を国家基軸
とする日本こそ、わたしたちの目指す、この極東の、美しい、賜物に満ちた国、
日本の未来です。
        
たとえば、学校教育でも、もっと人格と良心と自由の意味が体現される教育が
許されなければなりません。社会ももっと、人格を尊重し、単なる利得や
経済効率や自己実現が目的とされない、良心的勤労に重きが置かれる、モラルの
高い社会が、目指されるべきです。
それは、「天皇の国」への臣従からは生まれません。

そのための証し人として、わたしたちキリスト者には、まず、信仰の良心により、
聖書にしたがって、キリストにのみ王としておつかえするという、私たちの日常
生活社会生活での証しにおける信仰の良心が問われます。
自分の信仰の良心は、天皇の国によっては縛られないという、信仰の自由の確信が
必要ですし、その証しが必要です。

日の丸君が代法制化は、「天皇への服従」のシンボルの賛美強制を目的としている
わけで、天皇を国家の思想基軸にするか、良心の自由を(クリスチャンにとっては
「キリスト」を) 国家の思想基軸とするかの、思想対決の象徴なのです。キリスト
者の信仰の良心は、信仰の自由からこれを譲ることができません。

滝浦  滋