理由1.憲法の、国民主権すなわち自由と良心を基軸とする国家観に反し、
        天皇を基軸とする国家観へ、国の方向をむけるので反対する。

小淵首相はついに君が代を「天皇の国」の歌と断定し法制化に着手しました。
 1999年6月11日、政府は、国旗・国歌法案を国会に提出しました。政府は
趣旨説明を29日に衆議院で強行し、首相は「君は、主権の存する国民の総意に
基づく天皇の事をさす。」と断定し、「代は、天皇を象徴とする我が国のこと
となる。」と、言い切りました。君が代とは、「天皇の国」と断定されました。
それが永遠に続くようにという賛美です。

朝日新聞の社説は、解釈がますます強引になってきており、本来君が代とは
相容れない憲法原理の国民主権の国家観との矛盾が、ますます露呈している、
とのべています。

わたしたちの良心を支配されるまことの王は、この日本でも、まことの神です。
この国は、「天皇の国」の民としての臣従から開放され、聖書のことばに従う
「自由と信仰の良心」がなにより優先される、「自由と良心の国」となることが、
わたしたちの国家観です。
これはとりあえず現行憲法を国家基軸とする考え方といえます。

日の丸君が代法制化は、明らかな戦前の体制への逆行です。

にもかかわらず、公明党は政権参加の踏み絵としての、この法案を、あえて踏む
方針です。論理的発言は見られず、この重大な国家観についての事柄で、政権への
野心で目が眩んでいるとしかいえません。
民主党も、きわめて危機感のない状態で、菅・羽田両氏に一任しています。
党名通り「民主的」な「自由と人権の国家観」の徹底確立の好機ですのに。

ただ、下記のとおり、NHKと朝日新聞の世論調査が、特に君が代について世論が
二分されている事を示した事は、感謝するとともに国民に敬意を表します。


理由2.学校での強制が今以上に強化され、校長・教師のみならず、生徒や父兄の
        思想信条の自由が侵される。事実上、日の丸君が代が戦前の如く、超宗教的
        国民儀礼とされることになるので、反対である。

この「君が代日の丸儀礼」は、戦前の拝礼儀礼のごとく、非宗教を装いつつも、
すべての国民が思想宗教の如何にかかわらず当然従うべき義務があるとされ、これに
従わないものは「非国民」とされます。現在、「国民的合意が有る」と明白な反対が
あるのに言ってのける政治家は、わたしたちのような彼らの言う「国民的合意」の外に
あるものをすでに「非国民視」しています。

この日の丸・君が代の、特に学校での「国民儀礼化」強制の確立は、日本の
国家主義・国家神道にとって、戦前のセオリー通りの筋書きであり、国家主義
復活再定着の強力な足掛かりとなります。

このような意図は、自民党自由党の支持者(日本会議など)の間で、危険にも公然と
語られており、明白です。この法案が成立すると、教育現場での完全義務化となり、
指導が強化(強制)されてしまうことは、当然予想されます。つまり、君が代を歌わ
ない自由が無くなるのです。これは、明らかに憲法の「思想信条の自由」を侵す問題
で、キリスト王権を信じるキリスト者にとっては、信教の自由まで脅かされる事に
なるのです。(下記の世論調査結果でも多数が強制強化を危惧しています。)


理由3.最新の世論調査では国旗国歌法制化への「国民的合意」はない。
        ですから法制化には反対である。

1)6月15日に放映されたNHKの世論調査によると、
   「日の丸・君が代」を国旗・国歌として法制化することに
両方とも賛成            47%
両方とも反対            33%
「日の丸」はいいが「君が代」はだめ 14%
「君が代」はいいが「日の丸」はだめ  1%
その他、無回答            5%
となったようですが、これをもって「国民的合意」はほぼ得られているといえる
でしょうか。  君が代については、47%対47%です。

これについての、コメントを二つ。(NHK TVから)
(民主党 羽田幹事長)
「・・定着はしている。ただし 調査の結果、法制化ということついては
問題がある、この意見というのは結構多いんです。ですから時間を
かけてやるほうが私は良いと思います」
常識的意見ですが、そのとおり実行されるように祈ります。
(公明党 冬柴幹事長)
「法制化に対しても 圧倒的多数の人が支持してます。
ただ このあいだの15日ですか?あきらかになったNHKの世論調査で、
はじめて ですね、ま、 その部分が少なくなっているんであって 
それまではですね、非常に高い。 国民は支持しています。」
この発言は、事実を無視しており、根拠が無く、意味をなしていません。
この重大な国家観についての事柄で、政権への野心で目が眩んでいます。

2)6月30日付の朝日新聞の世論調査では、
   「日の丸・君が代」を国旗・国歌として法制化することについて、
「日の丸」法制化賛成  59%      反対  35%      その他  6%
「君が代」法制化賛成 47%      反対  45%      その他  8%
 学校での強制は強まる 55%  強まらぬ  38%      その他  7%
 今国会で成立させる   23%  議論尽す  66%      その他11%  
NHKとほぼ同様の結果ですから、世論の動向については、国民が割れている事は
まちがいありません。
 
                    20代  30代  40代  50代  60代  70上  
今国会法案成立すべき  12%     15%     18%     23%     27%     43%
              急ぐな  79      76      74      70      59      35
君が代に親しみある    41      53      59      70      77      86
              ない    56      45      37      26      19       8 
君が代法制化  賛成    30      36      35      51      57      70
              反対    64      60      57      42      33      17  
日の丸に親しみある    60      69      75      84      87      92
              ない    38      28      21      13      11       5
日の丸法制化  賛成    39      50      52      64      72      77
              反対    55      45      42      32      23      14
年齢別に見れば、わたしたちの祈りが聴かれ、証しが積み重ねられて、
君が代が廃される時代が遠からず来る可能性が有り、励まされます。
その時までに「自由と良心」という国家基軸を、「天皇制」にかわるものとして
日本に一層確立していくように、努めねばなりません。


(参考意見)
「政教分離原則」と「天皇制国家基軸」と「新しい国家基軸」をめぐって

1)「政教分離」について

政教分離原則は、スコットランドの長老教会の歴史においては、王の権力と結んだ
国教会から、17世紀に28年間迫害を受け、1万人以上の刑死者を出した苦しみ
の体験で裏打ちされています。
イギリスでも多くのピューリタンが死にました。多くはアイルランドへアメリカへ
逃げました。その末、あの「権利の章典」ができ、「人権と自由」が近代社会の柱
となる上でのイギリスにおける礎がきづかれました。

いまでも、エジンバラなどへ行くと、信仰の良心に従う礼拝、教会自治、聖書による
生活を求め、教会の王権からの自律を求めて殺された人々の記念碑が至る所に有り
ます。その人々も、なお罪人であったもののした事ですから、完全ではありえま
せんが、近代社会が享受している、人権と自由の揺籃を生んだ人達です。

「政教分離」は聖書のキリストの教えだと私は考えます。しかし、誤解が有ります。  
「政教分離」とは、教会が政治的な事を考え祈り発言する事の禁止ではありません

むしろ教会が、みずからの聖書に立つ発言行動の自由を確保するための自己規制です。

国家と教会には。それぞれ与えられた権威の領域が有ります。(実際領域と霊的領域)
むしろ、教会が常に自由に霊的に発言できるために、教会は国家の領域を直接支配
しようとすべきでなく、また国家は教会の指導者の任免・教えの内容・会議による
自治に全く手を出すべきでない事を、「政教分離」というのです。

「カイザルのものはカイザルへ」といわれたイエスのみことば、「私の国はこの
世のものでない」といわれたみことば、しかし、「いっさいの権威がわたしに与えら
れた」とのご主張、「存在している権威はすべて神によってたてられた」とのみことば、
そして、市民としての個々には生活の場で「上に立つ権威に従え」といわれつつ、
信徒の集い・教会には「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」
「人に従うより、神に従うべきです。」と命じられるみことば、これらを総合的に
まとめると、政教分離による信仰の自由・教会の自律ということになります。

例えば、創価学会が公明党に対して、良心からの発言が出来ないのは、この政教分離が
見せかけである事を示しています。政治支配に直接手を染めたので、政治について本来
なすべき、自由な良心から発言ができなくなっているのです
この政教一致の過ちは、教会の歴史でも常に繰り返され、教会を無力化してきました。

日本の学校の歴史では、政教分離や、スコットランドの教会の教理的信仰的社会的
影響を生き生きと学ぶ機会は全くないとおもいます。キリスト教内部には、決して
入らないというような堅さが日本の歴史教育に有り、人類の歴史を学ぶ上で
多くの事を理解できない結果になっています。「自由」「権威」といった「心」と
「頭」を一体としてする概念理解は、科学主義・合理主義がロジャース的博愛主義で
論理性無くまとめられているような、今日の学校の真理体系では、扱う方法が無い
と思います。まず、学校で自由や人権を正しく教えられる国にならなければなり
ません。

2)「天皇制国家基軸」の廃絶の必要について

この「政教分離」に立って、天皇を私たちは、このように考えます。

天皇が、本当に単に「日本国王」であれば、その国王をみとめることができます。
神は、「ただの人」に、それぞれ権威をお委ねになっているから、その権威は
その人が単なる罪人であっても、尊重すべきと考えます。

しかし、彼が、自分が神的であると感じたときには、(たとえば、大じょう祭の
神秘な寝床や、即位式の「たかみくら」に座ったときに、完全に自分で場違いに
感じていなかったとしたら)国王でない「天皇」の部分を拒否すべき理由が生じます。

「天皇」に私的な事ということは事実ないわけで、「天皇」こそ究極の政教一致
体制であり、ローマ帝国の皇帝崇拝と同じです。事実「祭政一致」と公言して
きた体制です。天皇が庶民と同質の「日本国王」へ改名する事はありえません。

彼の地位は、国家宗教・皇帝礼拝の遺骸であり、昭和天皇の自覚において、それが
変っていなかった事は、「人間宣言」の経緯やその後の皇室内での天皇の態度など、
様々に論証されています。

だから、日本の国は、国としては変化できないのです。戦争責任もこの国家主義に
起因するわけですから、国家主義が清算できないでは、はっきりしようがないのです。

この点は、「象徴」等という曖昧な言い抜けではなくて、いつかは制度的に明白に、
制度の廃絶をともなう区切りが付けられなければなりません。

この点が議論のわかれめです。多くの人が、天皇の超宗教性に気がつきませんし
問題を感じません。天皇制は戦後変ったと思っています。しかし、まだ日本には
政治基軸として天皇しかないのです。だから天皇にかかわる事に反対する事への
恐怖があります。

伊藤博文が明治の半ばに国会で国家基軸としての天皇制を言って以来、この点は
かわっていません。(丸山真男「日本の思想」)
何かがあれば、国民のよりたのむ思想的同一性は、この危険な制度しかないのです。

つまり、国家というものはある思想基軸が必要なのであり、宗教としての天皇に
代わる思想基軸が出てこなければならないわけです。

3)「新しい国家基軸」について

私は、聖書と福音に根ざす「人格(各々の委ねられた権威も含む)の尊重と良心の
自由」が国家基軸として代りにならねばならないと思います。
その意味で、憲法はとりあえずの基軸としては有益でしょう。

この「良心の自由」と「天皇の権威」との思想宗教的対立において、まず今明白に
「天皇」が「良心」の下に来なければなりません。君が代について、校長教師も含む、
「天皇の国」の賛美を唄わない「良心」の自由が認められなければ、それは「祭政
一致」体制の方向です。

「政教分離」を信じるならば、当然天皇制には反対する事になります。
もちろんその反対活動は、わたしの場合、言葉と意思表現を中心にして、霊的な
教会の領域の方法に止まります。