国旗国歌法案成立に乗じた政府の動きが続き、止まる所を知らない
流れが始まった。戦前と同じ、「国家儀礼は、国民に当然の義務で、
超政治・超宗教である」という独断が政府も文部省も支配している。
その排他性が全体主義の芽で、国家神道だと気付かないのだろうか。
戦前国家神道は、日の丸君が代を用い教育の場から非宗教を装い国
民の義務として浸透した。その危険な再興が明らかに一歩始まった。

教会は政治に関るべきでないという考えがある。伝道が妨げられな
い限り、世の政府に従うのが聖書の命令だという。しかし、聖書は、
国家もキリストの権威の下にあると教え、国家に対する教会のみ言
の自律性による対峙と、国家の権威への市民としての服従を共に求
めている。聖書の福音は個人の回心に始まり、国家のみ言への服従、
神の国の勝利を求め、国家の事柄でも広く主に従う自由を追求する。

「カイザルのものはカイザルへ」といわれたイエスのみことば、
「私の国はこの世のものでない」といわれたみことばがある一方、
主の「いっさいの権威がわたしに与えられた」とのご主張、「存在
している権威はすべて神によって立てられた」とのみことばがある。
そして、市民としての個々には生活の場で「上に立つ権威に従え」
と言われつつ、信徒の集い・教会には「堅く信仰に立ってこの悪魔
に立ち向かいなさい。」「人に従うより、神に従うべきです。」と
命じられる。まとめると、一切の権をもつキリストが権威を教会と
国家に別々に委ねておられ、教会と国家は共にキリストの僕であり、
国家に対する信仰の自由は御言のみに従う教会の自律で保証される。

「政教分離」とは、教会が社会や政治の事を考え祈り発言する事の
禁止ではなく。むしろ、教会の発言の自由を確保するための仕組だ。
例えば、創価学会が公明党に対して、良心的な発言が出来ないのは、
政治支配に直接手を染めたので、学会が自由な発言を縛られたのだ。
この政教一致の過ちは教会史でも繰り返され、教会を無力化御用化
してきた。教会は福音を語りつづけ、国家に対しても直言すべきだ。
「神の言葉は繋がれてはいない」!

日の丸君が代法は、政府がどう言いぬけようとしても「天皇」を、
国家の思想基軸として確立しようというくわだてである。明治半ば
に伊藤博文が帝国議会での演説でえがいた、天皇を日本の思想基軸
とする体制の青写真は、敗戦の破綻を経ても少しも変わっていない。
もう一つの国家基軸「自由と人権と平和」を、憲法によって片手に
握っても、日本国民はもう一つの国家基軸を放せていない。国民は、
戦後ずっとこの点で曖昧な立場を保ってきた。今、この法案をつき
つけられ、「天皇の国」を賛美し天皇を国家の思想基軸とするか、
良心の自由(クリスチャンにとってはキリスト)を国家の思想基軸
とするかの思想対決を迫られている。

キリスト者の信仰の良心は信仰の自由からこれを譲る事ができない。
「キリスト」か「天皇」か、どちらを第一とする国家を目指すのか。
一切の王としてすべおさめたもうキリスト(詩篇2篇、96−99
篇、マタイ28:19等)が、国王にも政府にも勝って、まず恐れ
られる日本、キリストのみことば(みこころ)に従う「良心」と、
信仰の「自由」による正義が満ちる日本、聖書の教える意味での、
国民の「良心と自由」を国家基軸とする日本こそ、わたしたちの目
指す、極東の美しい自然に満ちた国、日本の未来だ。
        
私達は、祈り続ける。聖書に聴き従い、日常生活で信仰の良心を働
かせ、王なるキリストにのみお仕えすることを志す。私達の言動に
は、天皇の国日本によっては縛られない自由の確信と証しが必要だ。
国家神道との主の戦いとして各地で、君が代斉唱日の丸拝礼の拒絶
の証しを続けよう。国家神道との主の戦いとして、各地で君が代斉唱、
日の丸拝礼拒絶の証しを続けよう。それは国家神道の偶像・天皇崇拝
の儀礼で、信仰の自由を侵し、侵略を忘却させるものだ。

日本の迫害を経験したヨハネス・ボス博士の55年前の警告がある。
「国家神道政策は教育と儀礼から始まる。聖書を教える自由が干渉
されない限り政府に同意し続ける教会は、時代の邪悪に対して証し
する代りに個人的宗教経験を強調し、倫理的社会的責任にふれず、
政治社会経済教育を考える事を止める。宗教的自由は、監視を続け
犠牲を払わないと持続できない。教会は邪悪と妥協する事を拒否し
た時にのみ「焼かれるが燃えつきない芝」とされる。(論文抜粋)」

戦後民主主義の中に紛れ込んで生き延びてきた同じ国家神道が息を
吹き返すのに直面して、われわれ教会は今、この半世紀前の警告を
聞く耳をもっているのか?