八世紀には「画像」論争がキリスト教会を揺るがしました。三世紀にキリスト画像が改
宗者への「文脈化」の目的で用いられ始めましたが、礼拝行為は公認されていませんで
した。しかし、勃興してきたイスラム教に対して、偶像礼拝まがいのキリスト画像では、
霊的に対抗できないと、東ロ−マ皇帝が画像を禁じ、画像破壊を行い、信仰復興を試み
ました。その武力政策が、逆に大きな抵抗に会い、教会側が反発し、画像論争が起こった
のです。その後754年のコンスタンチノ−プル会議では、再び画像礼拝が非聖書的な
危険な誘惑として、明白に禁じられました。しかし、皇帝の母イレ−ネの意向に守られ、
787年に第二ニケヤ会議が開かれ、キリスト像を礼拝堂に入れることが認められ、
初めて画像への礼拝行為が容認されました。しかし、東方では画像破壊が続き、結局、
842年、東方教会は、「像」なしのシンボルとしての「イコン(画)」を妥協として
復興させ、それへの敬意のみ認めるとして、「画像否定を貫いた」としました。後に
これが東方教会の偶像礼拝的慣習の中心となっているのは皮肉です。他方、西方教会では、
大教皇グレゴリ−が礼拝行為は禁じつつキリスト画像の使用を容認して以来、画像に対し
許容的でした。しかし、現在のフランスにあたる地方では王も教会も、画像に批判的な姿
勢を、八世紀末の礼拝書などでもなお公けにしています。
のちに1054年になって、東ロ−マ教会と西ロ−マ教会が分裂したのは、この長年に
わたる画像論争における相違が発端の一つでした。キリスト画像問題は決して端々のこ
とでなく、キリスト教会全体にとって、教会分裂を招くほど歴史的重大問題であったの
です。

当時、このキリスト画像を正当化するために、これがキリスト論など重要な教理的真理
の問題だと論ぜられましたし、シンボルによる礼拝という理論も深く絡んでいました。
また、キリスト画像の動機として、福音のいわゆる「文脈化」の圧力が見られます。
しかし、実はキリスト画像問題は、正しくは、聖書の倫理的道徳的教えの一つ(偶像礼
拝の禁止)についての問題と、まずシンプルに考えるべきなのです。

今日も、神の御子キリストが歴史の中に人間としてお生まれくださった受肉の事実から、
キリストの画像の作成使用をキリスト論的に推論し、正当化する人々が絶えません。
また、これも古来からの論理ですが、今は目に見えない主を礼拝するのに、一般大衆に
とっては目に見える助けがむしろ益であるという推論から、特に、子供に対する聖書教育で、
キリスト画像が無批判に多用されてきています。

しかし、いかなるキリスト画像による礼拝行為も、聖書の神の律法に照らすと、偶像礼
拝の罪であるという聖書的原理が、いかなる自前の推論より先に、まず覚えられるべき
です。キリストは神であられ、また、聖書は、神を礼拝するために、いかなる見える形
の像によってでも無く、み言葉によって礼拝することを明白に求めているからです。
キリスト画像は、たとえ教育のためでも、常に罪の危険が伴います。
イエス・キリストが真に神であられることをいかに真剣に考えるかが問われています。
またそのキリスト像は決して本物の神のみ子の実際の姿では有り得ず、偽物なのです。
改革長老教会の証言書がキリスト画像反対を明言しているのは、以上のような理由があ
ります。

十戒の第二戒を区分を変えることで曖昧にした中世カトリック以来、明快な礼拝の方法
についての規定としての第二戒が骨抜きになり、教会の多くが、それまでの教会会議で
は主要議題の一つであった、礼拝方法の聖書的規定について、無関心となりました。
この礼拝の聖書的規定への熱心は、宗教改革、特に、カルバンとその影響下の教会で
復興いたしました。しかし、今でも多くの教会の礼拝の実際に、この聖書の礼拝規定を
骨抜きにする十戒(第二戒)解釈が大きく影を落としています。
このように、キリスト画像問題は、詩篇賛美の問題同様、実は、聖書の正しい礼拝につ
いての規定的原理の尊重と直結する問題です。その意味で、教会の特に礼拝の霊性の
根本的考え方に関わる問題であり、ひいては私たちの敬虔の正しい姿を問い掛けている
問題なのです。

その意味で、先に「聖書的礼拝」を書かれたスピア宣教師が、簡潔ではありますが、キ
リスト画像を使用すべきでない理由を、歴史的聖書的教理的実際的にまとめられたことは、
この問題と偶像礼拝の罪の関係を改めて真剣に考える手引きとなり、また、聖書的礼拝に
ついてのより包括的な視点を学ぶ上で大きな助けであり、益です。
とりわけ、日本では、福音主義的宣教地として安易にキリスト画像を使ってきた過去が
払拭されていないので、これがキリスト教会にとって重要な問題にいかに連なっているか
という視野が、はっきり示され、画像問題への認識が新たにされることは、大きな前進です。
私たちは、まず礼拝で聖書に従う改革を貫き、王キリストのみことばによる支配に、まず
礼拝から明確に服する教会となることで、日本で主のみ国を証しすべきです。
教会のための具体的な教えの礎石を、本の形で次々残して下さる、スピア宣教師に与え
られた洞察と熱心を、改めて主に感謝致します。

改革長老教会牧師・神戸神学館代表  瀧浦 滋