リバイバル新聞1月14日号の「話題」の天皇と日本についての記事への反論
                         瀧 浦  滋


ここで論じられていることの土台をなしている、次の三つの前提は聖書的に認められない。

1)「日本文化、即、天皇との断定」:これは独断である。
  「キリストの日本」とは、キリストを信仰の良心の王としてすべてのものがそれに服し
  うる国、良心の自由が尊重されて社会が成り立つ日本である。良心からこそ真実な活力
  が生まれる。このような、真の良心の自由からの行動が国民を活性化することなしには、
  日本の未来はなく、日本は滅びの道を行く。日本を国体の奴隷とすることで、再び滅
  ぼしてはならない。すべての権威の中心に、良心の自由(信仰者にとってはキリスト)
  が立つ社会であり国家とせねばならない。

  天皇を国家機軸とすること(これは明治23年に伊藤博文が帝国議会で論じた国家方針)
  を廃して、良心の自由(王キリスト)が国家機軸に立たねばならない。それまでは日本は
  全体主義国家の色彩を脱せられないし、真に世界に対して貢献し国際的に開かれた民主
  法治国家ともなれない。

  キリスト者が天皇を頭と仰ぐことはまったくの逆行であり、その理論を徹底すれば、聖
  書で言う「反キリスト」の体制に確実になる。だからこそ、キリスト者は、確信を持っ
  て、政教一致の国家神道体制の廃絶を目指さねばならない。日本においては、宣教の根
  本課題は、キリスト対天皇である。記事に見られる主張は、この問題の本質をまったく
  理解せず、日本宣教の根本問題を完全にすり替えて、対決を正面から避けて妥協するこ
  とができるとする企てで、暴勇といえる。

  信仰とは個人の心の問題ではなく、世界観・国家観などまことの「権威」の現実の認識
  を含むものであることは、本質的なことだ。キリスト教会は、アジアをおおい、世界を
  おおう王キリストの人間の良心へのご支配、聖書に立ち聖霊によるご支配に服する社会
  (神の国)を生み出すことに仕えている。その幻に仕えて、宣教のすべてが営まれるの
  である。(マタイ28:18−20)

  キリスト者はナショナリズムではなく、キリストを王とする国際主義のもとで生きるも
  のとされたものだ。中世後期からヨ−ロッパにナショナリズムがあらわれ、それ以来、
  宗教改革運動も含めて、ナショナリズムが教会の歴史を良きにつけ悪しきにつけ揺るが
  し続けてたが、それはカトリックの誤れる国際主義への反動でもあったのであって、ナ
  ショナリズムにのった教会の姿は、到底本来の聖書的なものとは言えない。教会は、キ
  リストを王とする「神の国」のこの世での実現に、みことばの宣教によって霊的本質的
  側面から奉仕するものである。

  日本文化とは、聖書の基準に照らして、日本とその歴史の中で与えられた良い賜物、他
  に無い賜物、感謝し誇るべきもののことである。日本文化は「キリストの日本」となる
  日に、一層輝くものである。天皇制はその中にはない。むしろそれは、日本の美しい自
  然であり、繊細な仕事の能力であり、共同体の知恵である。そのような日本文化は御霊
  によって聖化され、ますます洗練されて、王キリストの「神の国」に仕える「日本の文
  化」となる。
  日本文化を真に維持し完成させるのは、キリストの教えであって、天皇ではない。
  ゆえに、日本文化が天皇なしには崩れるというのは「どう喝」のたぐいであって、もし
  崩れるとしたら、その日本文化観そのものが偏っている。

  日本文化を天皇制と言うような人工的近代国体思想の型に恣意的に嵌め込んではならな
  い。そのような「日本文化」の見方は「教条的」である。それは、それ自体がいのちを
  もち、変化し、国際的にも広がる影響力を持つはずの「文化」から、いのちを奪うこと
  になる。「主義思想」の一つが文化を潜称することになる。そこには、文化が本来持っ
  ている創造性と自由が失われる。天皇制国体思想は、文化ではなく、一つの主義であり、
  思想である。それを文化に押し付けることは、日本文化を殺す。

  日本文化は、美と益とを創出する民衆の知恵、一時の仮庵の人生をも楽しめる民衆の心
  情、そして、世界との交流から多くを吸収し得る柔軟性などにあるのではないか。
  天皇が日本文化だとは、日本人の賜物を無視し過ぎるし、あまりにも教条的である。
  そのような、浅薄な日本文化理解で、この国の民を愛し、この国の神からの賜物を感謝
  し、この国に王キリストに仕える「神の国」をもたらす宣教の視野が、本来の深みを持
  ってもてるものだろうか。

2)「神道は宗教でない」:これは欺瞞である。
  むしろ、キリスト者は、その意識において、キリスト教こそ「宗教」ではなく、「真理
  」でなければならないのではないか。そして、聖書から見ると、国家神道は、彼ら自身
  「宗教でない」と称するとはいえ、まさに「宗教」ではないか。

  国家神道側は、とくに戦前の日本政府の宗教政策の基本として、「国家神道・国体思想
  は宗教ではない」ということを常に言う。神道には教義がないと言う事も、よくいわれ
  る。これは国民思想であり、戦前の宮城遥拝ご真影礼拝や最近の国旗拝礼君が代斉唱は
  国民儀礼であって、宗教と関係ないとされる。これにあずからないものは、「非国民」
  とされる。
  1943年の米国のウエストミンスタ−神学校雑誌に、ヨハネス・ボス博士が、旧満州
  に置ける日本政府の宗教政策を分析する論文をのせておられるが、それを見ると、今日
  もその日本の宗教政策が変わっていないことが分かる。まず教育政策から国家神道思想
  を無宗教として浸透させ、次に国民儀礼を徹底させ、そして、最後に宗教団体への法的
  規制によってその影響を規制すると言うものである。昔も今も、国体思想を目指すもの
  の考えは変わらない。

  しかし、国家神道は、歴史的にも理論的にも実践的にも宗教であるし、本人たちがどう
  いうかにはかかわらず、聖書的にはまさにキリストに対立する異教そのものである。
  それは、国体への信仰を教え、礼拝儀礼を求め、宗教的心情による献身を要求してきた
  ことは、紛れもない事実である。同様な国家宗教は過去にも繰り返してキリスト教の敵
  であった。聖書の中にもその例はある。

  ロ−マ帝国のもとで、キリスト者は、国民として求められたとき皇帝崇拝をしたか?。
  天皇崇拝と同様な国民儀礼であった皇帝礼拝を、キリスト者が死をもって拒絶し続けた
  のは、間違いであったと言うのか。

  ロ−マ書13章の冒頭に「上なる権威への服従」の教えがあるが、ロ−マのキリスト者
  の例を見ると、その意味がロ−マ皇帝の宗教的権威の全面的肯定ではなかったし、皇帝
  礼拝を拒絶する信仰の自由の否定でもなかったことがわかる。だから、我々に当てはめ
  るとき、この聖句は、天皇制の全面的承認を求めるものではないことが分かる。あらゆ
  る地上にある権威なるものはただ神からしか発しないことの告白であって、その権威の
  乱用に対しては相応しく反対し抵抗することが聖書では当然とされている。(使徒4:
  19、5:29)
  ロ−マのキリスト者は、神からの権威を認めて、市民としては反乱をおこすようなこと
  はしなかったが、しかし、国民儀礼に類するような儀礼には、断固として参加しなかっ
  た。それは、国家または王を神とする偶像礼拝行為であったからだ。
  それは、真の王なるキリストへの忠誠(サクラメント)に背くことであったからだ。
  それは、良心のキリストにある自由の要求にいのちをかけて従ったのだ。
  のちに16世紀後半、スコットランドでアンドリュ−・メルビルが王の前で、まことの
  王キリストに背くことを求めることは、王と言えども許されないと、良心の自由をいの
  ちをかけて告白をした。そこに、近代社会の享受する自由の本来の源がある。

  天皇制とその強権的権威服従儀礼のような「国家宗教」に抵抗することは、この日本で
  政治と社会に置ける良心の自由を確保し、真のキリスト者としての社会的な証しを構築
  するための出発点である。
  たとえ、その道が時に少数ではあっても、地の塩の役割を果たさねばならない。

3)「文脈化の神聖化」:これは行き過ぎである。
  宣教の数的成功が至上であるという、聖書解釈の根本的誤りが、立論の背後にある。
  その上で宣教の成功にとって文脈化がすべてをおいて最優先であるというまちがいがあ
  る。これらに「教会成長理論」の欠点が誇張されて現れている。

  むしろ逆に、文化との習合や混交は、過去の宣教の敗北の最大の原因の一つでもあった。
  初代教会の宣教の成功の理由は「愛の交わり」とともに「信仰の純潔の徹底」と言わ
  れる。教会成長理論には、聖書的にも実際的にも多くの問題がある。認識があまりに単
  純だ。

  教会の発展は聖霊の時によるのであって、人が「リバイバル」を方策で生み出し得ると
  するところに、根本的無理がある。成長は、「文脈化」理論にもとづく、人間の知恵や
  方策によるのではないのだ。

  日本宣教の発展は、愚直に聖書の教えに従って生き続ける証しを、神様が見ておられて
  用いられるところからくる。おそらく多くの殉教の後にくる。
  天皇を重視すれば日本人が喜び、心のガ−ドが下がり、宣教が進むというのは、間違い
  だ。まことのリバイバルは個人的社会的な深い悔い改めから起こることは、教会成長の
  理論形成をした学者たちもみな認めていることではないか。

  天皇を尊重すれば教会が成長するというような乱暴な言い方は、み言葉に従うために犠
  牲を払いいのちを人知れずかけて戦ってきた多くの真実なキリスト者の証しを踏み躙る
  心無い言い方である。そのために殉教した韓国・朝鮮などの兄弟姉妹の尊い犠牲に対し
  てあまりにも心無いことばだ。世界の教会の歴史を見ても、そのようなみことばに生き
  る愚直な証しこそ基本であって、たとえば、スコットランドにおけるカベナンタ−の信
  仰の自由のための壮絶な歴史は無駄であったのか。

  教会をビズネスと間違っているのではないか。世的に考えていないか。教会はまず数と
  富の発展ではなく、まことの「神の国」の証しをどれだけたてられるかにつきるのでは
  ないのか。私たちがどれだけ成功するかではなく、王キリストがどれだけの心を真に服
  従せしめられるか、神のご栄光がどのようにあがめられるかにつきるのではないか。
  私たちが日本の奴隷となって宣教が進むのか。キリストの奴隷になるのが聖書である。

  2001年3月26日
  改革長老教会日本中会岡本契約教会牧師、神戸神学館代表