焼香の問題については:
1)心では神様に礼拝しているのであれば、行動で妥協してもかまわない
    という考えは、それ自体が「宗教を心に限定する誤った宗教観」にたつものです。
    戦いを避けんがための論理にすぎず、「必要なときはみこころに従って罪を拒む
    べきだ」という「証しの行動」を否定しています。それではキリスト者としての
    「社会的証し」は、まったく成り立ちません。
    これはキリスト教信仰を諸宗教と相対化して、諸宗教と共に社会儀礼の下に置く、
    儒教的発想ないし全体主義的発想に洗脳されている社会だという事情もあります。
    ですから「信仰の社会行動との一貫性」への願いが、今、日本の改革長老教会が
    まことの改革長老教会となりうるのか、問われる点です。
    心と身体が一体となった信仰が必要です。
2)「証し」ということを、「神のみこころに従っている事を人に示す事」でなく、
    ただ、「人や世間にキリスト者であることを良く思ってもらえるように行動する事」
    ととる考えは、まったく通俗的な間違いです。証しとは信仰の戦いの事です。
    人の理解のための証しではなく、神に従うための証しです。
3)焼香は仏教自体が礼拝行為として求めています。異教の礼拝行為です。
4)焼香を除けば仏教葬儀参列の宗教性は欠落します。焼香に宗教性が係っています。
5)これが死者の異臭を防ぐ衛生的観点からだという俗説は宗教学的に成り立ちません。
6)浄土真宗のように死者崇拝をしないという教義の所では一層、これは死者への
    礼儀というより宗教的所作の意味が強まります。
7)通俗的にみんな儀礼的にしているにすぎないという議論は、宗教の冒涜でもあり、
    無意味だから儀礼だからといって、私たちが異教儀礼に無節操に関ってよいとは
    まったく聖書で言われていません。離れよ触れるなが、真の神の命令です。
8)私たちの故人への愛惜や敬意は、全く別問題で、あえて混同する者は、悪意です。
    私たちも心から故人を葬りたいのに、その自由を奪った上、宗教を強制するのです。
9)日本人は何でも「宗教でない儀礼だ」といって言い抜け、霊的節操を破壊します。
    (戦前の天皇崇拝の国家神道しかり)そのように巧妙に信仰の自由を抑圧します。
    キリスト者は日本のためにも妥協せず拒否して、信仰の自由を勝ち取るべきです。
10)たとえ罪でもしかたがない、かまわない、という考えは恐ろしい、心の神に
    たいする死です。「悔改め」は「赦しがあるからまた罪に戻る」のでなく、
    「赦されるたびに決して罪に戻らないよう願う」ものでしょう。 
    そんなことがいえるのは、「自我と人しか見えていない」事が問題なのです。
    そうなると問題は、真の「回心」があるか、悔改めと信仰があるかということ
    になります。「神へのおそれ」を、御霊にいただいているか、吟味が要ります。

    具体的に従うべきときに従うと、信仰が前進し、身につき、成長するのです。
    弱さはあるだろうが、居直り正当化するのでなく、へりくだり悔改めるべきです。

    以上のように、焼香は狡猾に正当化されてはなりません。
    へりくだり、主に叫び、神以外を礼拝しない、異教の礼拝を拒否する、という
    証しの姿勢を貫こうと常に前進すべきです。

以上は参考までに書きました。
慎重な配慮と祈りが必要です。
渦中に有る当事者には私の言葉を直接引用する事は控え
ただ参考にしてください。

瀧浦  滋